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十津川記事 巻の上 (口語訳)

現代語訳

十津川記事書き出し十津川記事まえがき


























                         
 

             十津川記事 巻の上   中西 孝則 著

                   (現代語訳 上田尚男)

嘉永六年六月 アメリカの使節ペルリ氏が軍監四艘を率いて相州の浦賀に来航し、通信貿易の盟約を請い国書を提出した。時に天下は久しく静穏に慣れてきたがにわかに騒がしくなり世間は大騒ぎとなった。(近世史略)これはまさに当時の状況である。

【黒船浦賀来航図】

黒船

このような状況下、我が十津川郷でも早速集会を持ち銃器を購入する事となる。さらに、丸田藤左衛門・その子藤助等が村人を誘い大阪の人、萩野正親を招きその流派の炮術を学び、その他の人々も競って武芸を鍛錬し始めた。

それより先、天保の末頃乾丘右衛門・丸田藤助・西田久左衛門等は甲府の遊学士杉山?吉を招き剣法の教えを受け、千葉佐仲・田中主馬蔵の兄弟は紀州の田辺に行き紀州藩士某某に就いて分布を学び、高取藩の撃剣師杉野楢助に就いてその術を学んだ者ものべ数十人にのぼる。

○九月 上平主税・藤井秀麿を総代として意見書を五條代官内藤杢左衛門に持参し、本郷は、古来からの由緒を引き継ぎ、それ相応 の力を国家のために尽くしたいとの考えを申し出たところ、代官は大いに喜び、願の趣旨は江戸表に伝えておくので、益々武芸の備えを充実し、いざという時の 命令に備えるようにと言い渡された。

安政元年

○正月 元丹波亀山の藩士永澤俊平がやって来て、乾丘左衛門・上平主税・前田清左衛門・その子雅楽・中井主殿・吉田源五郎・丸 田藤左衛門・玉置豊前・千葉定之介等と出会い、大いに国事に関して憤慨談論して、文武を講演した。また、肥後の人、波多野右馬之助も来郷し、国事につき談 論した。その際、十津川郷民は、かって元弘の昔、護良親王が十津川郷に落ちのびてきた際の苦難を追憶し感慨はこの上なく、ついには、俊平と相談して、尊詠 を堅石に彫り刻み、これを永久に伝え、以てわが郷の気節の励みにすることと決定した。その後訳あってまだ実現していなかったものの、やがて四年八カ月後に ようやく尊詠に因み、碑石を蘆廼瀬川(あしのせがわ)上流の字瀧峠にある古松の下に建築した。その碑面は綾小路卿の筆跡により、以下の内容である。

 琵琶乃音毛昔爾変江天物凄志蘆廼瀬川廼瀬々廼水音(びわのねも むかしにかえて ものすごし あしのせがわの せぜのみずおと)

    正二位陸奥出羽按察使前権中納言源有長誌

その石碑の題字には「護良親王御詠」の六文字を刻み、石碑の背後には次の詩を記した。

護良親王御詠之碑】

護良親王碑
 

報主何辞隕此身於今雄烈宛如神傷心無限琵琶詠感激他年幾許人

           従四位美濃守石井在正謹識

   恭題

 護良親王尊詠碑陰

 九条公府侍臣城谷需拝撰

   清吟彫片石仰慕代甘棠松翠千年色琵琶遺響長

 同じく俊平の詩文あり今その詩を写せば、すなわち

「曾斯天歩是艱難忠直義雄何厭瘢若欲知濘龍泣血一篇隊拭瞳看」

○安政五年正月

深瀬繁理・丸谷民左衛門・沼田京蔵・上平主税等が京都にのぼった。もともと繁理は諸国を歴遊し多くの人々との交友関係があった ことから、繁理氏の紹介によって他の仲間たちは初めて長州藩の大阪留守居役宍戸九郎兵衛・村田二郎三郎の二氏と会い、時事を語り合い、やがて物産を交易する約束をするにいたった。その後一時食塩、蝋燭、干魚等を輸入した。但し、交易とは名目上で、その実互いに行き来する事によって国事を密議せんが為であっ たといわれている。又この頃わが諸氏は雲濱梅田源次郎を京都の住いに訪ねたところ、先生は喜んで迎え慷慨扼腕し時事を痛論し、其れを聞く者は皆感動し憤慨 した。

○四月 五條代官内藤氏が病没した。五月になってようやく、五條は近江の信楽代官多羅尾民部の預かりとなった。やがて、その役 人として藤尾藤作が五條代官所に着任するや、わが十津川郷は総代を送り其の着任を祝賀した。すると藤尾氏は次のように和歌を詠み、その答礼とした。すなわち

「流れての世にたのもしきとふつ川 人の心も神ながらにて」

 

【梅田雲濱】

梅田雲濱

○此の月(五月) 十津川の諸氏は 再び京都の梅田雲濱を訪ねた。先生が繰り返して言うには、貴君らの十津川郷が、朝廷に於いて昔から由緒のある事は人々がよく知るところである。そのうえ、 今日はまさに重大な局面を迎え、内憂外患まことにかってない国難が迫っている。今この時期に貴君らが発奮しない事には、まことに持って不忠のそしりを受け ることになろうと。諸氏はこの言葉に励まされ益々その志を強固にしたといわれている。この日、梅田雲濱の紹介で、一同は粟田殿に参上し執事の伊丹蔵人に面 会した。その後まもなく、丸田藤左衛門・野崎主計・玉置政左衛門等が伊丹氏を訪ね、十津川郷の由緒書き一通を粟田殿に提出し、同時に十津川郷産のシイタケ 一箱を進呈した。後日十津川郷が殿下の厚遇を被ることが出来たのはひとえに此の事があったためといわれている。粟田殿はその後、中川の宮、賀陽の宮、久邇 の宮と順次改号あらせられた。

○この年の初めから交際のある梅田雲濱が十津川を訪れ、野崎主計の家に数日滞在した後京都に帰った。これ以降、十津川郷の諸氏は京都との間を行き来し、しばしば先生を訪問してはひそかに天下の形勢を窺う事となった。

○九月四日 梅田・伊丹の両氏及びその他有志の人々が数多く幕府の嫌疑を受け、ことごとく江戸に護送された。その後、梅田氏は 翌安政六年九月十四日病のため獄中にて死亡し二度と帰らぬ人となった。有志の者たちは深くこの死を惜しんだ。一方、伊丹氏はその後嫌疑も晴れ、幸いにして 再び京都に帰還する事が出来た。伊丹氏は維新後昇進し、現在は元老院の議員となっている。

当初捕吏が梅田氏の家の門までやってくると先生は事態を理解し泰然として「妻啼病床児叫飢云々」の詩を詠じながら妻子や門人に別れを告げ捕吏に従った。此の時野崎主計の弟野崎民蔵が先生の塾に居てその現場を見聞していたと云う。

又、長州人の赤根武人も現場にいて、事態がひっ迫している事を悟り、かねてからの密談に関係する書類を全て隠滅した。当時事件の関係者として我が十津川郷士に捕吏の手が及ばなかったのは、全て此の時の赤根氏の処置の賜物であった。

以前、上平主税等が十津川に帰郷する際に梅田先生が古歌として次の詩を与えた

「コシテユク人ヲバサキニ立田山我身ハツユニヨシスルルトモ」

○十二月 千葉定之介が材木の売買の争論に関して江戸は神田九軒町の信濃屋庄三郎という者を被告に江戸勘定奉行大澤豊後の守山 口丹波の守へ訴え出た。その際、郷中の訴願については従来、上方の奉行所に出頭する場合は、上訴と唱えて麻の裃を着用し奉行所の玄関から入り松の廊下を 通って吟味席下の縁側に参上するのが昔からのしきたりであるから、千葉は江戸においても上方と同様にしようとしたが、その筋から通知が無い限り訴え出る事 は認められないと申し渡された。従って、千葉はその内容を十津川郷の某々に報告し、速やかにその筋の添え状を入手して江戸に寄こすように依頼してきた。

○六年三月 水戸藩の葉山仙蔵と称する者がやって来て、上平主悦・丸田藤左衛門等を訪れた。彼が言うには、護良親王の旧蹟を探し訪ねる為の旅との事である。途中河津国王神社の表木(誹謗などを書かせる木)に書きつけてあった歌に「慕いゆく道にしあればとをつ川岩瀬篠原いとはざりけり」と書かれていたとのことである。

【河津国王神社】

河津国王神社

また、葉山仙蔵が上平主悦を訪ねた際は、訳あって主人は留守だと使用人に伝えさせたところ、時節柄対岸に岩ツツジが咲いているのを見ながら取りあえず「岩ツツジイワヲ過ギナバ諸共ニ赤キ心ヲシラデ行クラン」と書きつけて差し出した。

これを見た主人は、玄関まで出て来て会い、宿泊を許可し終夜互いに語り合ったと言われている。葉山氏は又、玉置山に宿泊した際に仏法僧という鳥の鳴き声を聞きしきりに深山幽遼の情況に感銘し一首の歌を詠み次の日丸田父子のところに行き出し示したと云う。

葉山氏は各地を潜行した後、病んで大阪の旅館で死亡。本名は桜任蔵であった。

○四月九日 前田雅楽、原田左馬之助が千葉の依頼に応じて五條代官所を経由し京都町奉行大久保伊勢守と小笠原長門守の官庁に行 き、勝手に郷中の総代であると称して上訴するに当たり、江戸のしきたりに沿って江戸勘定奉行所への添え状を請求し、其れを受け取り雅楽は江戸に向かった。 十津川郷中はそれを聞いて、会議を開き、このたびの千葉の訴えはつまるところ個人的な問題である。にもかかわらず、あの二人は郷中総代の名を乱用したばか りか、まして雅楽は未だ居候の身分である。もしこの事を不問に付したならば将来十津川郷全体の取締に影響してくるであろうと、当時五條村に滞留していた上 平主悦等へその措置を依頼し、念のため総代数名も五條まで出向き上平と会って評議をしたところ、もはや事ここに至ったからには、このまま上訴の手続きを取 らせる必要があるとはいうものの、その責めは問わざるを得ないという結論に達し、玉堀為之進・佐古源左衛門・前田清左衛門を総代として加え江戸に行かせ た。但し、江戸に到着次第雅楽は速やかに帰郷させ、総代としての立場は喪失せしめることを推し進めるように約束した上で行かせた。ところが、総代等が到着 したにもかかわらず、雅楽を帰郷させるどころか千葉の訴訟に関与して又は、千葉の代理となり数回にわたり願書等を提出した末に、その年の七月三日、ついに 上訴は却下される事となり、其の請書を提出しその帰途京都奉行所、及び五條代官所にもその内容を届け出し、八月に帰郷しその顛末を皆に報告した。但し前田 清左衛門は病気のため江戸に残った。事ここに至り、総代等の振舞は意外にも昔からの十津川郷に昔から伝わる例格を失う事となり、容易に収まりのつかない事 態となり、郷中は又物議を引き起こす事となった。そのためその月の二十八日 百石毎に三名を出し、川津村に集会し、(当時郷中の見附高は千石であった)さらに花岡佐五右衛門・丸田藤左衛門・上平主悦・玉置幸右衛門(玉置氏は病のため出席しなかったと云う)深瀬和平の諸氏を も招き共に議論してついに江戸に行った者たちあるいはその親戚より謝罪書を徴求し上平主悦・植田利祐を総代に選び五條ならびに京都に行かせ、此のたび提出 した届け出書に関係なく従来から十津川郷が行ってきた上訴のしきたりを今後も残すよう願い出る事と決定し閉会した。時に九月十六日であった。

其れに基づき総代が出発し両庁に出頭上願したところ仔細なく従来の通り上訴は差し支えない旨の了承を得た。従って総代等は此の内容を江戸勘定奉行にも通知しておいて頂くよう五條庁に依頼した上で帰郷した。これを上訴の一件と称して騒がれた事件であった。

○総代が江戸に行った月の二十日、材木方総代として上平主悦、沼田京蔵、前田清左衛門、玉堀為之進、吉田藤吉、寺尾兵助、佐古 源左衛門、藤井織之助、原田佐馬之助、山本喜平等が願書を五條代官松永善之助に提出し本郷は昔より租税は免除されてきた土地であるのだから、境内から輸出 した木材に紀州藩が新宮の湊で課税する口銀と云うものは一切免除されるようその筋と掛け合って頂きたいと請願した。また同時に一同で今すぐその筋に請願に 赴く事もやぶさかでないので、いずれにしてもご指示を頂きたいと。すると、難渋している内容を書面で提出するよう申し渡されたので、直ちにその要点を列挙 して其れを提出した。また嘉永元年の冬、乾丘右衛門、高田定之進、丸田藤左衛門等は和歌山に行き、次のように訴え出た。「近年新宮藩に於いて、過酷な新法 を設け、口銀と称して上流から輸送する木材に課税し取り立てが極めて厳しいため我々への影響は甚大であり、皆難渋に耐え難い状況である。可及的速やかに新 法を停止して頂きたい」と。すると、新法を停止するよう新宮藩に通達し、またその趣旨を我が五條代官山上藤一郎にも通知されたものの、その後も一向に新法 は停止されることなく、従ってまた再び同様の上願をする必要が出てきた。ただ未だにそれは実現していない。

○文久元年某月 梅田雲濱氏の門人で若狭の行方千三郎がやって来て繁理の家にしばらく逗留した。

○文久二年正月 土佐藩の北添佶馬・依岡権吉・曾和傳左衛門が河津村に来て野崎主計と会談した後帰って行った。同二月、薩摩藩 の志々目献吉・上村玄庵・江夏荘七等が十津川にやって来たが、たまたまわが諸氏はすでに上京した後であったので彼等は直ちに京都に向かい京都で面談した。 これが薩摩の志士との交際の始まりであった。此の事があってから京都の十津川郷士たちはしばしば薩摩藩の小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵等の諸氏をその 藩邸に訪ね会談をした。また、此のころ京都木屋町の池庄樓において初めて長州藩の桂小五郎と面会した。

○九月 村田二郎三郎が同藩の小沢忠右衛門と中村五一を誘って十津川郷を訪れ会談した。

○十津川郷士が京にのぼる際は、当初は御池通八幡町の生箸屋彦兵衛方を宿舎としていたが、その後御車町今出川の伊勢屋嘉吉方に移転した。

 ○三年三月 将軍徳川家茂が上洛した。我が郷は旧例に倣い鹿皮三十枚を上呈しこれを祝賀した。平岡源蔵、尾中織衛、榊本総兵 衛、植田柳蔵らが此の総代として上京した。此のころは世の中は益々不穏な空気に包まれ、列藩の主従や有志の輩が続々と京都に集まり、中には尊王攘夷の思想 を主張する者もあり、また中には佐幕開港の考えに同調する者もおり両派入り乱れて京の都は内外ともに紛糾してかってない程のにぎわいとなったという。

○四月 丸田藤左衛門、上平主悦、深瀬繁理、千葉佐仲、田中主馬蔵、佐古源左衛門、前田雅楽等は中川の宮に書簡を奉呈した。その概略は次の通りであった。

「この度、攘夷を決定する際には、十津川郷は古来からご由緒の土地につきなにとぞ今一度、昔に戻り御命令を下して頂ければ十津川一郷王事に全力を尽くす覚悟でございます。願わくば私どものいつまでも変わらぬ心中をお聞きとどけ給わりたい。」と

翌五月十日、中川の宮殿下より左記の令書を賜る。

            大和十津川郷

                有志の者へ

其の郷はかねて昔より勤皇の志きわめて深く、最近の外国人渡来に関する時勢に当たり十津川郷の志情は事のほか満足至極に思し召しである。よって国家の御為、準備の手当として金三百両を下賜する。

    癸亥五月十日    中川宮侍臣隠岐長門の守 奉

尚、右のほかに大判金一枚を賜う。これは今でも十津川郷の蔵に保管してある。
(
この大判は産土神社に奉納するものとして賜ったと言われている)

○吉田源五郎、深瀬仲麿、丸谷志津馬等が相前後して上京し、ともに国事に奔走した。

○二十二日 御所学習所から呼出しを受け丸田藤左衛門、田中主馬蔵、前田雅楽の三人が参上したところ三條西、錦小路の両卿が直 接お会い下さり、親しく十津川郷の昔からの皇室との由緒を御たずねになったので、詳細にご説明申し上げ、又、その日退席した後、書面にしたためて提出し た。その概略は以下のとおりである。

「十津川郷は畏くも古来より官軍として宮廷をお守りしてきたその一貫した志により、恥ずかしながら十津川一郷の租税は免除の許 可を被り、其の事は代々郷士に連綿として受け継がれてきた。しかしながら、昨今に至り状況は静穏ならざる様相を窺わせており、不肖ながら、私どもは祖先か らの遺志を継承して心より国家のために報いんと希望して一同話し合いの末閣下にお目通り致したところである。その際に、図らずも今日『由緒いかが』とのご 質問を賜り、その場ですぐにご説明させていただく機会を賜った事は、まことに持ってこの上なき幸せでございます。つきましては、私どもの心掛けを十分ご理 解賜り、応分の職務をご下命くださいますよう。これは十津川郷一同の本願でございます。」

その後しばらくして、両卿は返礼として次の通り下された。

「その方たちの考えは、誠に奇特の至りである。ついては、当月二十五日に再度出廷するように」と。

しかしながらその当日

「朝廷の議論は今少し決定に至っていないため、なおしばらく待つように」と申し渡され

その後、六月十一日になってようやく命令が下された。

くだんの三氏と玉置政左衛門等が長州藩の佐々木男也と共に学習所に参殿した。その際東園、壬生、萬里小路の三卿が列席され、我が諸氏を近くに呼び寄せられ下賜された御沙汰書は次のとおりである。

「大和十津川郷士は、いにしえより朝廷を重んじ、忠誠の者たちが少なからずいた。しかしながらこのところ容易ならざる時勢たちいたっており、昔からの遺志を継承して忠勤に励むべき事」

六月

ついでながら記せば、当時長州藩の佐々木男也氏は我が十津川郷に関して、極めて精力的に斡旋の労を取ってくれていたが、右の書 付の末尾に「但し、長州幕下に属すべし」との添え書があった。我々郷士たちはそれぞれこれに疑問を抱き、ついに主悦等は直接佐々木氏に抗議した結果、その 個所を削除し我々が納得出来ることとなった。

ここにおいて諸氏は欣然としてこれを拝受し、いったんこの御沙汰書を郷里に持ち帰り、在郷の全員に拝覧させた後受書に署名させた上でご提出したいと申し上げ、ご了承頂いた。

○十三日 丸田藤左衛門、上平主悦、玉置政左衛門、南源右衛門は京都を出発し、御沙汰書を持参 して帰郷。十五日に林村に到着。ちょうどよい事に、先に徳川将軍が上洛した際祝い品を進呈した諸費用を清算するため各村の代表が林村に集合している時で あった。すなわち、十六日、帰郷した諸氏は直ちに林村の会場に臨席し御沙汰書、中川の宮からの命令書や賜り物等を皆の前に披露し、直ちに十津川郷一同心を 一つにして国事に尽力すべきである事を力説したものの、以前五條代官所より国家非常の節は速やかに郷内から三百名の兵士をさし送るようにとの触れ書が送ら れており、さらに十津川郷の外に出た事もなく、世間でどのような情勢変化が起きているのかを知らず、只、幕府の威厳に服従するだけの人間も少なからずい て、なかなか向かう方向が一致せず、そればかりか異論が紛出するばかりであった。そのような状況であったため、皆それぞれ早々に帰村し、御沙汰の内容を しっかり各村人たちと協議して意見を取りまとめた上で、当月二十三日を期限として御受書を総代に持参させようという意見が多く、最終的に此の意見で一同了 解して散会した。.かくして、参加諸氏は郷里に馳せ帰り会議の内容を皆に披露したところ、各村も、あるいは多くは 半信半疑で戸惑い、意見が一致するどころでなく、いたづらに日時を経過するばかりで、皆それぞれ勝手な意見を言い合い異論紛々、ほぼ十津川郷全体がそのよ うな状況となり混雑した。中には、中野村と三村の組からはひそかに数名を派遣して、五條村の代官所に次のように訴え出た「外国人の事については、以前から 幕府に於いて御考えがあり、万一非常時に於いては本郷から三百名の兵を繰り出すようにとのお達しもかねてよりあり、一同覚悟してきたところではあるが、上 平主悦、丸田藤左衛門、玉置政左衛門等はひそかに上京し、何を考えたのか此の度び御沙汰書と令書と称する書付、及び現金三百両、大判金一枚等を持ち帰って 来て皆に披露した上で、受書を持って直ちに上京すべく皆に催促している。
我が十津川郷はご由緒の場所であり幕府から命令がある時には、いつであろうとも身命を顧みずご奉公に努める事は当然の事とは言 え、突然に中川宮ご自身から令書ならびに金子を賜るなどと云う事は、にわかに信じ難く不審の事と考えられる。しかるに彼らの云うがままに、昨今上京していく者も出てきており、このままでは我由緒についてもいかが相成る事かと食事も喉を通らぬほど心配している。従って、一刻も早く彼らを諭して頂き、我が十津 川郷の由緒を汚す事の無いように切にお願い申し上げる云々」引続いて四村、西川のふた組以外はほぼこの説に雷同してぬけぬけと五條村に集合し、その数はほ ぼ百四五十名にも及び郷内は益々沸き返った。

○二十三日 上平主税は以前の約束に従い上京するつもりで一人で五條村に差し掛かったところ、丁度議論が紛糾している最中で あったため、ついに代官所に呼び寄せられ、白洲にて種々尋問を受けたけれども、其れに対して一つ一つ理由を説明したが、それにもかかわらず異論者たちはなかなか納得しない。主悦は「このように十津川郷の者たちが異論を唱えてはいるけれど、しょせんはただひたすらに愚直であるがゆえのためで、決して悪意があるわけではない。いまここで敢えて彼らを論破して不快の念を抱かせるのは決して得策ではない。今しばらく耐え忍び、皆の心が一致するまで待つのが肝心であ る」と考え、皆がこの件を持ち帰りあらゆる人と話し合いその上で七月末を期限として猶予頂きたいと五條代官所に願い出て、皆と一緒に帰郷した。これは七月 五日の事であった。

かくして、七月十八日に各村一名づつの総代を出し大野村に集合し事の決着を計ろうと約束したが、当日になって中野村と東村からは誰一人参加しなかったため、結局は会議を開く事が出来ずむなしく散会する事となった。

すると、異論者たちはこの状況に乗じて又々仲間たちが集まり、五條村に駆けつけ事態は調停出来なかったと訴え出た。

二十八日になり、主税たちは最早これ以上説明しても無駄と悟り、大野村での会議が不調となった事を始め、同志の者たちの長年にわたる切実たる心情を吐露する一方、異論者たちは方向を誤っている事を詳細に説明した文書を作成し代官所に提出した。

その数日前には丸田等が上京し、郷内の意見をまとめる事が出来なかった状況を京の同志達に報告した。

○郷中が紛々としているとの報告が京都に伝わると、在京の諸氏等は憤然として「今般我が郷が朝命を受けたのはまさに千載に一隅 の好機であり、十津川郷の面目はこれ以上の事はないにも拘らず、彼等は一体何を疑って強固に異議を主張し、未だに拘っているのか。もはやこれ以上猶予する 段階ではない」とすぐさま決断し、深瀬繁理、丸田藤左衛門、佐古源左衛門、吉田源五郎、千葉定之介、油上喜平治等を総代として請書を上呈した。

一方五條村に集合している輩たちはその後も応援者を集め益々上京するのを阻止しようとしている。

このような状況ではあったが、在京の者達は七月二十五日、学習所に於いて再び左記のとおり御命令を授かった。

                     十津川郷士へ

  以前より京都に滞在の者たちに玄米五百石を下賜いたす

    十津川郷の印は今後

      

   右の様に決定致す

  右一紙 


 御紋付提灯の御紋については

   十津川郷の印は勝手に入れてよい

 組旗は御紋付とすること 

 右一紙

 

               十津川郷士へ

 参政が支配いたす事とする

 右一紙

我が郷は昔から○に十字の印を用いてきたが、今ここに至り菱に十の字の印に変更するよう命じられた。これに一同躍り上がって喜 び、これ等を奉じ早速京の朝廷の御守衛に当たる人数を呼び寄せるため千葉定之介、油上喜平治、佐古源左衛門が京都から五條村まで帰り着き直ちに代官所に行き代官鈴木源内に面会を願い出て、謹んで御沙汰の件を披露した上で「朝命はかくの如くである、しかしながら我が郷の異論者たちはただひたすら些細な事に拘泥して大義とは何なのかを弁ずる事をしない。五條に来集してあれこれ訴え出ている事がお粗末で何とも嘆かわしい限りである。彼らは今直ちにその過ちを改め る事をしなければ、まさに取り返しのつかない事となるであろう。従って願わくばはっきりと説明して彼らの取るべき道を決定させて頂きたい」と申し出た。すると代官も理解したと見え翌日、総代森尾帯刀、高田織之進等数十名を代官所内に呼び出して、「この度び朝廷から言い渡された内容によれば十津川郷は誠に名 誉この上ない事である。よって上平主税、千葉定之介等の意見に従って一刻も早く上京の上、御奉公を致す事が今は肝要である。万一このことが原因となりよか らぬ結果を招いた時は、自分がまず腹を切ってお詫びをしよう。」と断言した。このため、集まっていた異論者たちは皆やむを得ず代官の諭しに従って請書を提 出して帰郷した。これは八月五日の事であった。

○八月七日の通達

  御紋付の幕ひと張り下され置き候、御用のほかみだりに相もちうるべからず候事。

○九日 在京の十津川郷士たちは寺町三条下ルの園n宸仮の屯所として、初めて「十津川郷士宿陣所」の表札を掲げた。当初在京 の諸氏は近いうちに十津川郷から二百人程度上京するとの知らせを受けていたので屯所を設ける必要があると考え参政官に願い出たところ民家か又は、寺院で代 官所や幕府とは無縁のところを探し出して届け出る様にとの指示を得たので、いろいろと探し求めようやく園n宸探し当て届け出たところ直ちに了承を得て決定した。

○さて郷内の各村に於いては御守衛のため上京する人選をし、合計百人がそれぞれ甲冑、刀、槍、弓など武具を携え十二日に五條に 到着した。その日の夕刻千葉定之介、大方源左衛門が沿道の宿舎に触れ書を配布するよう五條代官所に請求し、其の承諾を得て先発した。翌十三日全員が五條を 出発しその日は河内の三日市駅に宿泊。十四日は大阪の八軒屋に到着、そのまま夜船に乗り十五日に入京した。それによってそれまでの在京の人数と合計して百 七十余人となった。

其の到着二日前、すなわち十三日に左記のとおり御申し付けを受けた。

「この度攘夷の御祈願を為されるため大和に行幸あらせられ、神武帝の山稜春日大社に御参拝、御逗留なされ攘夷の件を発令の上神宮にお行きなされる事とあいなった。」

一方では、これを阻害しようとする者が居るとの情報がひそかに伝わっていた。

○かくして、十津川郷士達が京都に到着した日前侍従中山忠光は備前の藤本真金、刈谷の松本謙三郎、土佐の吉村寅太郎、江戸の安 積五郎等を始め一騎当千の浪士五十人余りを率いて堺の港から上陸し自ら天誅組と称して河内、狭山、白木等で説得し武器や食料を拠出させ、十七日千早峠を越 えて五條村に入った。

其の時の前侍従中山忠光は緋縅(ひおどし)の鎧で身を包み、鍬形(くわがた)の兜をかぶり鞭を手に馬上から指揮をとり其れに従 う面々も甲冑あるいは鎖の襦袢を着込んで大刀を身につけ弓、銃、槍、長刀等の武器を持ち菊の御紋を染め抜いた大旗を翻し、北岡村から二手に分かれ五條代官 所を目指して進行した。

れを見る人々が様相がいつもと違うと感じる間もなく傲然と一発の空砲を合図に側用人池内蔵太を始め浪士たちが陣屋の裏表の門から突入襲撃し、代官鈴木源 内、元締め長谷川泰助、手代黒澤義助、手代常川庄二郎を殺害し、鮮血が滴り落ちる生首を掲げ、一方書帳簿類は講御堂寺に運び込んだ上で夜になるとついに代 官所に火を放ち燃やしてしまった。
翌日になると鈴木代官等の首を曝し、次の罰文を掲示した。

「此の一同の者たちは朝廷のなんたるかをはき違え、近年幕府の謀反の意志に従い、正当な有志の者たちを押しのけてあたかも朝廷 と幕府を同じかのように心得ている。我が国創出以来永きにわたって統治されてきた朝廷に対する恩義を忘れ、たかが三百年の恩義を主張しあげくの果てに皇国 を辱しめ、外国人の手助けをするとは誠に持ってけしからぬことであり、其の罪科は極めて重大である。よってここに天誅を加えるものである。」

たまたま、代官所に押し掛けた時、二見村の嘉吉と云う按摩が陣屋内に居り、あわてて逃げ惑っていたところを、代官所の一味と勘 違いされ切り殺された。又、手代の木村裕二郎は重傷を負って大島村あたり迄逃げて行ったが、倒れているのを翌朝誰かが天誅組に報告し、浪士二人が現場に行 き佐々木の首を切り取って持ち帰り他の曝し首に加えられたとの事。

さらに、鈴木源内の妻女は五條村に預けられ、手代の梅田平三郎夫妻、近藤米太郎、矢島信太郎は五條村の牢屋に投じられた。ただ し、その後九月二日に彼等は天誅組を追討に来た紀州藩の柴山太郎左衛門によって救出された由である。また天誅組は高取藩に使節を派遣し、味方に加わるよう 勧めたが、同藩は態度を明確にしなかった。

○この事件発生の際、我が十津川郷士隊が上京していくのと途中で出くわしていたとすれば、直ちに其の隊に加わらざるを得ない状況であったが、ほんのわずかのすれ違いにより無事上京する事が出来たのは、結果的に幸いであった。

○十八日 宮廷内が、何か不穏な様相を呈しており守衛の各藩とも皆武装を厳重にし、あたりが騒然としていたため、すぐさま在京 の十津川郷士達が禁門に駆けつけたところ既に門は固く閉じられており立ち入ることも出来ずただ右往左往するばかりであった。やがて参政の諸卿はすでに全員 鷹司殿に退去したとの情報が伝わり、直ちに郷士たちが駆け付けたところ長州藩が厳重に其の門を守衛していた。我が郷士隊もまた参政官の命令に従って其の裏 門の守衛に当り何が起きているのか動静を窺っていたところ、夕刻になると諸卿は門から出て南の方角に向かい長州の兵隊がこれを擁護して駈け出した。我が郷 士隊も急ぎ其れを追随し稲荷街道を通り大仏殿に入った。我が隊は其の南門の警護にあたった。其の夜は大雨が降ったため守衛の者たちの武装は全員ずぶ濡れと なった。

夜明けごろになってようやく東久世卿が我が隊に「守衛御苦労であった、最早其の儀に及ばぬので京の屯所に引き上げて休まれよ」と。

その後しばらくして長州藩が三條、三條西、四條、壬生、東久世、錦小路、澤の七卿を奉じて長州に向かったとの情報が伝わった。 当時は我が郷士隊は事情を詳しく知ることが出来ず、其の詳細を知って茫然としたという。我が郷を一貫して管理されてきた参政官の方々が突然都落ち為された ということは、我が在京の郷士達に取ってみれば川を渡るのに竿を失ったかの如くであるが、やむを得ず上平主税、前倉右衛門、千葉佐仲その他諸氏はそれぞれ 傳奏方を始め高位高官の諸家の門に伺い今までの経緯を述べて、何らかの朝命を賜りたいと申し述べた。

その一方で五條においては、中山前侍従が勅命を唱えて挙兵し二十日に天誅党は次の趣意書を発布していた。

「この度、この地にやって来た趣旨は、最近攘夷を決定されたにもかかわらず、国土、人民を預かっている者たちが只自分たちの贅 沢のために人民を痛めつけている。このことは却ってせっかくの攘夷の御英断の妨げとなっており、近日、直接御親征為されるにあたってその事前の準備として である。既に当地の代官鈴木源内はその最も甚だしいものであるため天誅を加え殺害した。今後五條代官が支配していた当地は、天朝の直接支配する民となるの で神明を敬い君主を重んじて御国のために尽くすように。この度の復古の御祝儀として、今年の年貢はこれまでの半分に免除なされるので了承の事。尚今後の事 は出来るだけ軽くしたいと思うが、詳細は後日御相談の上御沙汰致す。

右の内容を全員漏れなく伝えて聞かせて、感謝の上拝戴し忠勤に励むべき事」
なお、主として我が郷に檄文を賜る。その内容は

「昨二十二日に申し渡した通り、ただちに出張致すべきであるが、火急の御用であるので十五歳から五十歳までの者は残らず明二十 四日本陣に出張する事。万一理由なく遅れるような者については、これまでのご由緒は関係なき者として厳しくお咎めを受けるものと心得て早々に出張致すべき 事。

  八月二十三日卯の刻

                    総裁 吉村寅太郎         」

これを受け、郷全体がこれに応じ野崎主計、深瀬繁理、田中主馬蔵、丸谷志津馬、沖垣郭之進、前木鏡之進、中丈之助等を始めほぼ 二千余人が二十五日に到着すべく本陣の桜井寺に向けて出発した。初めのうちは玉堀為之進の考えがしばしば十津川郷の諸氏と異なりまた、其れに同調する者も 少なからず居たが遂にここに至って天誅組から、誤った考えであると判断され、河内の浪士植田主殿と共に二十四日天の川辻に於いて首をはねられた。

主殿はかって、藤田東湖のもとで学問を修め、すこぶる見識のある人物である。以前京都に居た際、勤皇と称する各藩の行為を痛烈に批判した論文をその筋に上呈した事もあったという。そのことが原因となりここに処罰されたともいわれる。

氏はまた上平主税を訪ねて行きその家に宿泊したこともあるとのこと。よくよくその考えを推察すれば時勢に合致していないとはいうものの、必ずしも誤った考えと云う訳でもなく、この度び受けた仕打ちについては、どうすることも出来ず、ただその運の悪さを憐れむばかりである。

○二十四日 京都守護職松平肥後の守は左の通達を発した

 「一揆が蜂起した知らせが届き、厳しく追討するように、野宮宰相中将から仰せ出を承った。」

これにより、浪士追討の命令が藤堂藩、紀州藩、彦根藩、郡山藩の四藩に下された。

○二十六日 傳奏野宮卿より口頭で次のお達しがあった
「最近聞くところによれば、市街に於いてたびたび乱暴を働く者がいて、其れが為に人民は安心する事が出来ないとの由。
従って十津川郷士は市街を巡察し乱暴者の鎮圧をするように。なお、宮廷内は諸藩に警護を命じてあるとはいえ、さらに一層注意する事。」

○この日中山前侍従は配下の部署が決定するのを待って、夜進行し、高取城を攻撃した。戦いの火ぶたが切られるや高取城の兵士たちは全力を尽くして防戦し、両陣営の鬨の声は山々を揺るがさんばかりであった。
かくして、侍従の兵士は勇敢さでは勝ったとは云え、何分にもにわか仕立ての兵士たちが多く、離散してなかなか指揮通りに動く事も出来ず、遂に夜明け頃には敗色濃厚となり、兵士たちは散乱し統制がつかなくなったため、いったん五條村まで退却した。
高取城側はそれをあえて追撃する事もしなかった。
この戦いで天誅組は死傷者及び生捕りになった者は数十人であったが、それが誰であったか、確認できる状況ではなかった。
その様な中で尾中甚蔵は敵の中をかいくぐり、まっ先にその状況を京都の郷士邸に報告した。
○同二十六日  左記のとおり御沙汰を賜る
「                       十津川郷士へ
最近五條方面に於いて中山侍従と名乗り勅命・勅使を勝手に唱える暴虐の賊徒が居ると聞いたが、先だって以来朝廷から禄を支給されている十津川郷士の多くが間 に挟まれ難渋しているものと思う。しかしながら勅使中山侍従と申す者を差遣わした事は一切ないので、その様に郷士達に伝え早々に上京させ御沙汰を待つよう に」
又、時を同じくして、会津肥後の守から左の通り達しがあった。
「元中山侍従は去る五月に出奔し、官位は返上し祖父以下縁を切られ、現在は庶民の身分でありながら和州の五條に於いて一揆を起こし、中山中将又は中山侍従と名乗って無謀な所業を行っているようである。勅命と唱えているため手を貸す者もいるようであるが、その様な官名は全く偽名であり朝廷を恐れぬ不届きな狼藉者にして、朝廷から遣わされたなど一切関わりない事である。従って早々に打ち取り鎮静化させるように、皆にしかと伝達致すべき事」

○二十七日 前夜の戦いにおいて総裁だった吉村寅太郎は、たまたま道を間違えたため合戦に参加出来なかった。その事を以て厳しく中山侍従の怒りを買い、寅太郎はその過ちを悔み、何とか償おうと思い、夜間壮士数十人を従えて再度高取城に向い勇猛果敢に敵の陣地を攻撃した。戦いのまっ最中に突然一発の流れ弾が寅太郎の脇腹に当たり落馬した。
そのすぐ側に我が郷士の西嶋吉右衛門が居り直ちに彼を背負って退却し、それに従って味方も敗走する事となった。

寅太郎の負傷は味方が誤って発砲したものと言われる。

○在京の我が十津川郷士は二十六日の御沙汰を受け賜わるとすぐその日に伝達の代表者を帰郷させるに当たり会議を開き、今は郷里の周辺の通路は内外から完全に閉鎖されており、容易に入郷する事が出来なくなっている。従って伝達の者は二手に別れ、別々の道から入郷を企てるべきであろうと決定。かくして千葉定之助、松井源蔵、深瀬佐治右衛門、前田嘉一郎、上谷信之進、尾崎八右衛門の一行は紀州方向から入ろうとしたが橋本驛で紀州藩から怪しまれ、いくら説明をしても理解してもらえずに抑留されて目的を達する事が出きなかった。又丸田藤左衛門、丸田藤助、前田雅楽、谷向半十郎の一行は大和の桜井村に着いた時初めて天誅組が高取城攻撃に敗れ加 わった我が郷の死傷者や生け捕られた者達が非常に多数いると聞き、急遽高取に駆けつけ高取藩の執事者に面会。京都の朝廷から命令を受けてきたこと知らせ、 只ひたすら生け捕られている者達を釈放してくれるよう尽力したが、聞き入れてもらえず、やむを得ず一旦ここは引き下がり、潜行して北山郷から迂回して数日 後にようやく帰郷する事が出来た。

しかしながら朝廷の命令を伝えられるような状況でないのは明白であり、ひそかに同志達に言い含め、それぞれ分散し、しばらく様子を窺がった上で時機を待とうと云う事にした。此の頃、前侍従は五條村の陣営を引き払い天の川辻に退き、兵を要害の地に配備して防衛の準備を進めていた。

其れを攻撃する先鋒として藤堂藩は既に賀名生郷の和田村の近くまで進行していた。

○九月四日には次のようなお達しがあった。

                 十津川郷士へ

 両傳奏が支配する事となった。

当時の傳奏職は中納言飛鳥井雅典宰相と中将野宮定功の二卿であった。これを受けて、我が郷人はやや安堵したという。

○九月某日 中山前侍従はまた一通の趣意書を我が郷に送って来た。その内容は、

「この度、勤皇の忠義を唱えて行動をしたところ、昔よりご由緒深い十津川郷は早速皆の者が奮起してくれ大変満足である。従い、 当地を以て本城と定める事とした。しかしながら彼の悪者どもは天朝を幽閉してついには外国の思うつぼにはまり、自分たちの悪だくみを勅旨と言っては、善良 な者達を根絶やしにしようとしている。けしからぬことに、恐れ多くも天皇をなんと心得ているのか。有志の者達よ、最早一日片時も心を休められる時ではな い。すなわち、直ちに出発し敵の矢玉を恐れることなく、あれこれと言いふらしている逆賊たちに天誅を加え、忠義を尽くす人を助け人民を安心させたいと深く 思いを致している。十津川郷全体も一緒に守っていこう。もし敵方と連絡を取り合っている者や、我が考えに逆らう者がいれば、年長者に相談し直ちに罪状を明 らかにして厳科に処すべき事。なお、後日上京した際に賞罰はしっかりと行うものである。

  文久三年亥年九月  中山忠光

             十津川郷士中     」

右の文書は今でも十津川郷の文書として蔵に保管されている。

伴林六郎光平の筆跡である。

○八月十八日の京都の変動から始まって天誅党の計画はことごとく噛み合わなくなり、追討の諸藩が日を追ってこれを包囲してきた が、天誅党は毅然として屈せず十津川郷の者と一緒に十津川の険しい山に陣を構え、防御柵を設けてここで雌雄を決する構えであるとの知らせを受け、我が在京 の者達は郷の内外に関し憂慮に堪えざる状況であったが、九月五日左記の通りの御沙汰があった。

「去る八月十七日和州の五條村において乱暴を行っている浪士を追討する命令が武家に対して出されたが、残党が十津川村に立ち 入ったとの報告を聞いた。このまま放っておいては国家の大損害を招きかねない。十津川郷は往古から勤皇の志が極めて深い事でもあるのだから、郷中皆で早々 に全力を挙げ残党を追討すべき事。」

そして、中川の宮殿下からお呼び出しがあり、深瀬仲麿、上平主税がお目通りする事となり、時勢の事をいろいろお聞きになった上で、お手当として小判百両を賜った。

九月七日 大日川村において、天誅党が初めて藤堂藩と戦った。この日、藤堂藩は大日川村の宮の社に陣を張り天誅党を攻撃したが、天誅党は阪上に陣取って防 戦した。数時間戦っても勝敗を決するに至らず、互いに後退する事となった。天誅党には一人の死傷者もなかったが、藤堂藩は地の不利もあって若干の死傷者が あったと云う。

○同日 京都に於いては、去る五日の御沙汰を奉じて帰郷する十七名は二手に分かれ、一方は榊本總兵衛、尾上勘十郎、鎌塚光三郎、玉井安右衛門、田中織之進、中塚嘉治馬、小林兵衛(小林は後に杉本と改名)、西村信之進(後の西村皓平)の一隊で紀州藩伊 達五郎の取りもちで同藩小姓組の村田彌惣他二名に高野山まで護送してもらったので各所の警固場も難なく通過し笹峰を越えて十三日に寒の川の横垣まで到達し た。別の一隊は上平主税、中島藤助、中善藤太、和田良平、中井織蔵、尾中甚蔵、東政之進、沼田嘉膳、北村伊佐衛門は藤堂藩の協力を得て吉野郡鷲家口村から 北山郷に入り十四日に全員帰郷する事が出来た。

二隊が帰郷した事を先に帰郷していた丸田氏等に内密に連絡をした。

○八日 天誅党の半田門吉、上田宗児から野尻村で渡された「事情大略」と標題のある書付の写しを手に入れたので、文中時々誤字脱字はあるけれどそのままここに記す。これにより当時の内外の状況を推察する事が出来るだろう。すなわち

「攘 夷の事について幕府が天朝の意志に背いている事は今更議論の余地はない。すなわち、数々の悪だくみが露見し或いは天朝を廃帝にするため小笠原国書の頭は反 逆を企て、其れに相次ぎ松平春嶽は天朝を迫害しようとしている、しかしながらこれらはすべて露見し悪だくみを行うことは叶わなかった。正義の天上人姉小路 殿のように死力を尽くして王室を助け轉法輪三條殿をはじめ公論正義の天上人の方々が叡智を傾け長州公を始めその他有志が尽力した末、明確に御親征を仰せ出 られるに至った。
悪党どもはここに至ってもなおその悪計をもって一部の天上人を巻き込み会津などは恐れながら有栖川の宮に迫りついには御親征を妨げ、あまつさえ正義の公卿に濡れ衣を着せ、忠義正義の長州もすでに滅びようとしている。道理の通らぬ事ばかりであまりにも情けない事である。
神国の正義心を持つ者達よ、外見をつくろう事ばかり考えず、天下に勤皇の志を持つ者達は雲のごとく、また蜂のごとく義兵をあげて奸賊共に天誅を加え、叡慮を 取り戻し皇国を昔のように蘇らせる大業を成し遂げるために尽力し、天朝の恩に報いなければならない。其れをしないようであれば、悪人共以上の罪人と言えよ う。
この度び、中山殿は天下に先だって当大和に於いて義兵を挙げられたところ、京都に於いて奸賊が政権を握り、中川宮及び会津の命令を以て賊徒は日々勢力を強 化している。これを昔に例えれば楠正成の千早城籠城に等しく、賊徒を退治すべく力を合わせ忠義を尽くせば、状況は変わり必ずやかっての新田・児島・菊池の ような英雄たち、あるいは勤皇の義兵が続々天下に沸き起こってくる事は明らかである。既に、丹波・丹後・但馬にも義兵が立ち上がり長州はまた大挙して近日 中に上京するとの報告もある。今まさに粉骨砕身の忠義を尽くさねば、どうして神国の有志の人と言えようか。
ここに、天之川辻から二里北の木曽と云う要害の地に拠点を設け本陣とし、天之川辻は後陣と定めた。その他、紀州との往来の道を始め処々に兵士を配備し又はかがり火を焚いて敵を遮り、あるいは放火して敵を追い散らし彼らの旗を奪い取り、我が軍の勢いは日々盛んになっている。
十津川郷全体へ米塩を運搬する手段は追々開いて十津川郷のためにも急ぎ尽力をしたいとの思し召しであられるから、郷中の有志の者達もこれまで以上に忠義を発揮し、天朝のために死力をつくして頂きたいとのご意向であらせられる。

しかるに、紀州の者どもは全く天朝を重んじるべきである事を理解せず、かの悪人の会津等の命令を受けて軍隊を繰り出し、何の使者も送らずに、逆にこちらからの使者の行く手を阻み、彼らからみだりに発砲して戦を始めるなど、誠に以て武士の礼儀さえわきまえていない。

あまつさえ、我々が五條村に立て置いた立て札は、当世の愚かな民や幕府が天朝のある事を知らないが為、皇国は永久に天朝の恩を 被り続けていくこと、さらに人の取るべき道を教え、人の心得として忠孝を説き天朝の御為に不忠を罰する立て札を打ち砕き或いは土足で踏みにじりとんでもな い事を行っている。いやしくも人としての心があれば皇国の二文字を見れば拝伏してこそ神州の人と申すべきであるにもかかわらず、右のごとき体質はまさに外 敵以上の大逆賊と言えよう。その肉を削り骨を砕いてもなお飽き足らぬ行いである。勤皇の心を持つ人々はこれを聞き悔しさに歯ぎしりし、発奮しない者は誰も いない。

十津川郷の有志の人々もこの思いは特に篤いと了解した上で、忠義と勇気を出して天朝のため尽力する事をお望みである。又百姓たちは決して騒ぎ立てることなく安心して一層農業に精を出すようにとのおほしめしである。」

○同日 我が在京の者達は寺町門の中にある妙法院宮里坊を借りて屯所とし移動した。

九日 夜天誅組が突然紀州藩の富貴村陣を襲撃した。紀州藩勢は狼狽し一斉に逃げだした。又天誅組の別働隊は下市村の彦根藩を、そして下淵村の郡山藩を攻撃 し彦根・郡山両藩の兵も防戦できず逃げ出した。天誅組は兵器を若干分捕り凱旋した。この夜下市と下淵の民家は火を付けられ合計三百十六戸の民家が焼け、富貴村もほぼ半分が焼失した。この日侍従は白銀岳に陣取り方策を練っていた。

○我が郷の某なる人物が橡(とち)原村の椛之木峠に登り近所の村の人々に指示して西北にある二つの山に砦を築き、幕を張って夜はかがり火を焚き、あたかも多数の兵が居るかのように装い下市あるいは下淵等から攻めてくる敵を惑わせたのち数日後に退いた。その後彦根勢がここにやって来て民家二棟を焼いた。

○守り手は奇策を弄し、随所に出没しては寄せ手を随分苦しめたものの、所詮これ以上の守りは不可能と知り、遂に十四日になって 天之川辻の陣を自ら放火し十津川郷に入って来た。かくして、天誅党の諸氏は谷瀬村あるいは武蔵村を最後の一大決戦の場と定めた。一方我が十津川郷は皆の意 見がなかなか纏まらず、あれこれと意見を交わしているうちにも、寄せ手は既に四方に迫り、すでに外部との通信はすべて途絶え郷土の危うき事風前のともし火 の如くとなった。しかるに多くの郷人は依然として御沙汰なるものの詳細を知る余地もなくただひたすらに朝命については敬い奉るものと信じて今日に至るまで 皆うちそろって防戦に努めてきた。さらには、谷瀬村に黒木御所と称する昔護良親王がお住いになられたと云い伝えのある古跡もあり、武蔵村には楠正勝の墳墓 もあると云う事実が、天誅党の諸氏にこの二つの村をもって終焉の地にしようと思わせた理由である。

○その前後 京都から帰郷した諸氏は密かに協議し、上平主税、丸田藤左衛門の二人を当時前侍従が本陣としていた風屋村の福寿院 に行かせ、伴林六郎等に面談して次のように言わせた。すなわち「形勢が既に敵方にある事は諸君らも知っているところである。しからば、今後の諸君らの動静 いかんによっては我が十津川郷が生き残れるかどうかの岐路となる。願わくば、この十津川郷のためを想いこのまま密かに郷から退去して頂きたい」と。

郎等は何度も議論した上で、我等の説を聞き入れ天誅党で五條出身の乾十郎ほか諸氏と共に前侍従を説得し無事本郷を出る事と決定した。一方では各村から一名ずつの代表を池穴村の龍蔵院に招集して先だって中川宮殿下から賜った御沙汰書を皆の前に披露し、ようやく皆は世間の情勢を詳しく理解するに至った。まさに その時、藤堂新七郎の軍勢が既に十津川郷の境を越えて攻め入って来たとの急報が届きいたため、直ちに十七日に上平主税等数人が池穴村の会場から夜を徹して 長瀞村に駆けつけ藤堂藩の本陣に入って以下の内容を伝えた。「まさに我等も貴藩同様浪士追討の命令を受け、かつ既に浪士たちは昨夜十津川郷を退出したの で、進軍を停止されたい」と。しかしながら彼等は彼らで命令を受けておりそのまま引き返すわけにはいかないと了承せず。そこでかれこれやり取りしている間 に、郡山藩、彦根藩の軍勢が長殿口から、紀州藩の津田南左衛門の軍は寒野川口から武器を輝かせながら計数千人が十津川郷に侵入してきた。なかでも紀州兵は 最も乱暴を極め山天村では故意に火を放ち民家を一軒焼失。彼らは村人が天誅組に味方した恨みを晴らすためと説明したが、事件が収束した後の世で紀州藩は若 干の金を贈り謝意を表することとなった。

○天誅党が白銀嶽に屯所を置いた頃から吉田重蔵、水郡善之助等十余人は他の者と意見の食 い違いを生じ、密かに党を抜け出し野尻村の中井内臓の処へ宿泊した後西川口に退去していた。当時はまさに十津川郷人全体が不本意ながら天誅党を追討する各 藩の疑いを晴らして何とか郷土を守ろうとしている最中であったため、重蔵の一行は西川の山中でその土地の人に夜襲をかけられ、さらに逃走の途中紀州藩の兵 に見つかり全員討ち取られたと伝えられた。また一方では重蔵達の考えは、天誅党は所詮兵器や食糧の準備も不十分であるため思いを成し遂げる事は不可能であ るから何とか一方の逃げ道を確保し、追討の各藩から逃れた上で改めて再度計画を立てるべきだと主張するのに対し、その他の諸氏は全員で十津川郷に立て籠っ て戦い、万一敗れるような事があれば全員討ち死にするまでだとの考えであったのが意見の食い違いを生じたところであったと言われている。

○九月十八日 天誅党は首領の前侍従中山忠光を護り葛川口から笠捨山を越え北山郷を目指して退去していった。その際、我が郷人 の中には彼らの心情を察し忍びがたい想いの者達が密かに北山との境界近くまで随行し、別れを告げて帰った者もいたという。さて、落武者達が北山郷に入ると 沿道の村人共は皆山間に逃げ隠れし、軍の兵器を運搬する事すら困難となり、憤った彼等はついに兵器を焼却する事とし、白川村の仏寺に運んできた兵器を山積 みにし、寺と一緒に焼却してしまった。これは二十三日の事であった。さらに天誅党で肥後人の武士田熊雄は戦の中で病に罹りついに風屋村において病死し、皆 でその地に葬った。このようにして天誅党の形跡は十津川村から皆無となったのである。さて天誅党はその後白川を出発し伯母峯を越え二十四日の夜鷲家口村に 到着した。そこには予め紀州、藤堂、彦根の各藩が待機しており、天誅党をせん滅しようと待ち構えていた。天誅党は少しも怯むことなく素早く彦根の陣に突進 し勇敢にたたかったものの、しょせん兵士の数は格段の差があり吉村寅太郎、宍戸弥四郎、那須眞吾、上村定七郎、山下佐吉、林平吉郎、吉田八十助の七名が戦 死した。一方彦根藩側は隊長の大舘孫右衛門、伊藤弥左衛門を始め若干の死傷者があった。この日の寅太郎は旧傷がまだ治りきっていなかったが、この負傷の仕 返しのつもりで戦いに臨んだという。その翌二十五日天誅党の残党はさらに進軍し、紀州藩の高山右近の隊と鷲家村で戦闘し、盛んに敵を苦しめた。この際藤本 眞金、松本謙三郎、同万吉、森下幾馬等が戦死した。この間、前侍従及び近従の数名は危機を脱し大阪に逃れその後長州に落ちのびたと言われる。その前後各所 に於いて生け捕られた天誅党の兵士はやがて元治元年七月十九日京都の変の際に京都の牢獄で全員斬首された。これが、天誅党の末路の概略である。

○変の初めに野崎主計が先導して天誅党に加わり、十津川郷全体を巻き込んだ徴兵を行った。其の事があって、戦いに敗れることを察知した際自ら断罪するつもりで辞世の和歌二首を詠んだ後、故郷の山中に於いて腹を切って謝罪した。その和歌とは、

「チチ君ニツカヘリマツルソノ日ヨリ 我身アリトハオモハザリケリ」

「ウツヒトモウタルル人モ心セヨ 同ジ御国ノ御タミナリセバ」

時は九月二十四日、享年四十歳であった。又深瀬繁理は別に志すところあって、前侍従の後を追い北山郷白川村に行き知り合いの家 に潜んだが、氏は以前北山郷で富家から強制的に軍需品を拠出させ、計画を進めようとした事があったためその恨みを持った郷民から追討軍である藤堂藩に密告 され、それがために捕えられ打ち首となった。氏は刑に際して、淡々と次の詩を読み刑に服した。

「アダシノノツユトキエユクモノノフノ ミヤコニノコス大和魂」

其の死去の日は野崎氏の切腹の一日後の事で、年齢は野崎氏の三歳下であった。

○この二十四日には各村ごとに一名ずつの総代を出し、野尻村に集会して天誅党の乱平定後の処置について話し合い、今後郷全体が協力して天朝に御奉公することを誓いあった。その上で、謝罪をしたためた野崎主計の遺書と併せて出兵してきた藤堂藩に提出した。

○二十七日 藤堂和泉の守の先手として出兵してきた藤堂進七郎から左の通達があった。

「去る二十一日京都に於いて傳奏衆から別紙が相渡され申した。ついては郷内へ連絡してこの通達の写しを皆に回覧し、その旨ありがたく承る事

別紙

十津川郷の内に於いて先日以来乱暴をはたらく者がいるとの風聞が伝わって来たが、もともと何の罪もない者達であるが、元の中山 侍従等に味方をしたと云う事は天朝の意に反したわけであるからその罪は決して軽いものではない。右のような心得違いをした者はやむを得ず処罰を受けなけれ ばならないところであるが、あまりにも不憫であるとの思し召しから、朝敵と看做されることが無いように努力したいのでその様に承知しておくように。」

このような寛大な御沙汰を拝聴して十津川郷の者達は大いに感激し、また藤堂藩に於いては先の繁理の処刑をたいそう後悔したと言われる。

○二十八日 藤堂藩がまず最初に兵を引き連れ撤収した。その他の各藩もこれに倣い撤収していった。まるで雷雨が瞬時に収まった かのように十津川郷は静寂に戻った。しかしながら高取城の攻防以来未だに生死不明の者もおり、さらに紀州・彦根の両藩の兵は愚かにも我が郷人数十人を捕え それぞれ各国許に送ったものだから、人心の憤りはなかなか収まりがつく状況ではなかった。

○その一方京都に於いては、園福寺に駐屯する百余名については、八月二十七日に丸田・千葉・前田の三名を又九月七日には上平・ 榊本・小林等数名を帰郷させてから後三十日以上も十津川郷内の情報がまったく途絶えていた。来る日も来る日も何らかの連絡を待ち続けていたところ、九月三 十日になりやっと千葉清作ほか三名が密かに上京し始めて十津川郷内の様子を伝えるに至った。すなわち、

丸田・前田・上平等が御沙汰書を持ち帰り説得に努め、又八月十八日の京都に起きた変動の様子も次第に分って来て浪士に味方していた者達が次第に浪士を離れ、一方の浪士たちも形勢が次第に不利になっていくのを察し快く我が郷士達が離反していくのを認めた。

かるに、攻めてきた四藩の内紀伊・彦根の二藩は既に藤堂・郡山の二藩が引き揚げた後にもかかわらず、乱暴狼藉を働き、紀州兵は山天村の泉谷某の家屋に放火 し又丸田兵部・丸谷志津馬・田中主馬蔵・原田佐馬之助・吉村元右衛門・野崎佐吉・野崎寛蔵・原田良蔵・中井幸之助他数名を捕え、さらに下級兵士の中には愚 かにも民家の器物を略奪した上農地を踏み荒らす者も出る始末であった。また彦根勢は野崎利七郎・植田利祐を捕え各地に護送された。さらにこの上はいかなる 暴行を受けるやもしれず、十津川郷の周囲を包囲されて久しく米塩の輸送も途絶え、状況は困難を極めて居る中、このような暴行を受けておりほとんど十津川郷 全体が滅亡の寸前であるとの連絡を受けた。(2013//4 更新)

其の知らせを受け直ちに一同は会議を開き、朝廷に嘆願すればあるいは直ちに鎮静すべくよう命令を受けるかもしれないが、先ずは 支配所に代表者を送り上願するのがよかろうと決定し、吉田源五郎、千葉佐仲を代表として、その月の当番である傳奏野宮殿に次のような内容の願書を提出し た。

「この度は天誅党なる者共が十津川郷の中に立ち入り(中略)この騒動で食糧の運搬路が途絶え十津川郷は皆困窮しており(中略)追討を命じられた諸藩には深い疑惑を与えている様子で、郷人に対して厳しく叱責をするのみならず乱暴を振るうなどしており、ほ とほと困窮しております。私どもが上京して以来と云うもの、十津川郷の取るべき方向を周知致す以前に、突如この度の事変が勃発し、事情のわからぬままに十 津川郷中が混迷致した事は、誠に朝廷に対して申し訳なき次第で、一同深く憂慮している次第である。この度の事は皆それぞれの考えが愚かであったと深く反省 をしている次第であるので、ここのところは何とぞ格別の憐れみをおかけ下さり両御殿から御使者を派遣して、追討の諸藩にご説明いただき状況をお鎮め下さい ますようお願いいたしたい。この上はこのような事の無いよう、深く心に刻み忠心に励む所存です。」と

只、当時は朝廷に於いても幕府が全力をあげて反幕派に対する嫌疑が向けられるのを避けようとされている時勢柄でもあり、たかが 取るに足らぬ我が十津川郷のために容易に使者を御使わせになるような事は望むべくもなく、やむを得ずかねてから親交している薩摩藩へも同様の依頼をしたと ころ、それは大変な事態だということになり、そのため又総代等は京都二本松にある薩摩藩邸に行き留守居の内田仲之助に面会を求めたところ、この御時勢のた め非常に繁忙を極めて居るためと謝意をもって面会を断られた。その後も何度か面会を申し出たところ、ようやく十月五日になり面会する事が出来た。

右の紀伊・彦根両藩の乱暴により郷中はまさに困難な状況に至っている事を申し述べ、左記の文書を提出して救助を願い出たとこ ろ、内田氏はしばらく聞き入っていたが、其れが誠に事実であれば気の毒この上ない。本薩摩藩が必ず引き受け応援致そう。ついてはほかの用件もあるのでこれ から参内することとしよう。との明確な一諾を得た。さてその翌六日に御使者を鎮撫のため派遣するとの御沙汰が出されたのは氏の一諾周旋の力によるものであ る。以下薩摩藩に提出した願い書の内容である

先だって中山家と称し大和の国五條村に於いて乱暴を働いた徒党の者共は天之川辻に立てこもっているが(中略)大和行幸に先駆けた勅使として郷中に檄文を投げ込み、男子で十五歳以上五十歳以下 の者は残らず勅使のお迎えとして天之川辻に出向くべき事と厳しく申し渡されたため、郷中の多人数が徒党に加担致したとの風潮が流れており、これは容易なら ざる事と私共京都に詰め合わせている者から嘆願いたして、郷中から相当の人数を呼び寄せるべく御書付を頂戴し、八月二十七日の夜、丸田藤左衛門、千葉定之 介ほか四人が帰郷したが、日数がかなり経過しているにもかかわらず郷中の様子を知ることが出来ず、次第に日を経過してしまい朝廷に対して誠に持って恐縮に 堪えない事である。(中略)

又、九月七日に上平主税その他十六名が藤堂藩、紀州藩の両藩の協力を得てようやく郷中に立ち帰る事が出来た。(中略)藤左衛門等は道中随所で困難な状況に陥ったがようやくの事で入郷する事が出来たものの、浪士た ちの意気込みは猛烈で、御書付の事を郷人に披露できるような状況ではなく、かれこれ思案した揚句上平主税等が入郷したことで、打ち合わせと称して五十九か 村から代表者を招集して、頂戴した御書付を皆に披露したところようやく事の次第を理解してもらう事が出来た。その後次第に郷中から引き払い、浪士たちは孤 立しだしたため、攻撃してきた諸藩が入り乱れ郷中は騒然となった。(中略)

図らずもこの間、朝廷からのお達しに従っているのか御調べになった上で、誠にもって御憐れみの御沙汰を被り、郷中一同感謝の気 持ちで感激の涙に堪えない。この上は一層忠誠に相励みご奉公申し上げる所存ではあるが、皆の気持ちを一つにまとめようとしているところにこの度の混乱に遭 遇し、言論の一致どころかそれぞれが思い思いの異論を唱え、天誅組の追手の諸藩に提訴する者も出てくる始末である。一方提訴を受けた諸藩も郷中の事情を詳 しく知らず、中には思いがけない処置を受けているものもある。長らく米・塩の運搬が途絶えているため十津川郷の困窮は目前に迫っており、このままではおび ただしい餓死やけが人が出て郷中は滅亡していく様相であると心を痛めているところである。(中略)

御用多忙の折、誠に恐縮ではあるが、何とぞ貴藩より立ち回り下さり、我が郷中が平穏を取り戻すため後周旋下されば誠に持ってありがたき幸せな事であります。」


○中川の宮におかれては、かねがね我が郷のことについて何かと御心にお留置き下され、十津川郷は古くから朝廷に仕える身であ り、食糧費も賜ったことから朝廷については特に礼を尽くすように一同に申し伝えている。この度の騒動に当たっても、いささかも心得違いの無いよう早々に上 京すべく様にとの十津川郷を思っての特別なご命令を頂戴したにもかかわらず、尚もご救済を嘆願している折柄、同月六日に上平主税等が再び上京を命ぜられ殿 下に拝謁し、騒乱の前後の状況を報告し各藩に捕えられた捕虜達を早く恩赦頂くよう重ねて哀願した。

その日、又殿下より総代等が呼ばれ参殿したところ、この度の十津川郷を鎮静化させるためとしてご使用人をさし向かわせることと し薩摩藩・十津藩に其の警護を、藤堂藩にはその案内及び警衛を仰せつけられる手はずになっている。この三藩が随行するのだから郷中の状況もよくなるであろ うとの殿下の思し召しであり一同はありがたく感謝いたした。

その日次の御沙汰があった。

                  十津川郷士へ

過日浪士が一揆を起こし、その後郷中の情勢は混乱しているそうであるが、以前の如く一同心を一つにして勤皇に励むべきである。 この度、郷中鎮静化のため渡辺相模の守、東辻図書権助等を使者として派遣為されるので土地の案内役、警衛のため逗留中の食料等については藤堂藩に命令致し たので、郷中に於いてもその点理解し案内・警衛等致すようにとの御沙汰である。

かくして、八日に御使者が平安城を出発し、従者として薩摩の村山斎助、三島彌兵衛、志々目献吉、久木山泰助、土佐藩の福富健 次、国澤四郎右衛門、藤堂藩の横山正左衛門、堀三百之助がつき、又藤堂藩は高取から三宅源蔵、西荘源左衛門に交代して、その他には会津藩の外島横兵衛、杉 本源太郎、大野英馬が高取から追随した。そして我が郷人では丸田藤左衛門、深瀬仲麿、吉田源五郎、千葉佐仲、乾賢吉、中井荘五郎、植田三蔵、井向喜右衛 門、磐井又七、岡村文太夫、中沼清蔵等二十三人が彼らを警衛、案内し、下玉織之助、中栄之進は別に藤堂藩の案内として藤堂藩に属し入郷の途に就いた。

○十二日 御使者により、高取藩に三十九名、郡山藩に三名計四十二名が捕えられていたのを解放された。その際のお達しは

「去る八月元の中山侍従と称する者の偽勅を信じて同人に随行した事はけしからん事ではあるが、朝廷に於いて格別のご配慮を賜り、帰郷の上は以後忠勤に励むべき事」

ここに於いてようやく四旬余りの間拘束され嘆き悲しんでいた者達は再び青天白日を仰ぐ事が出来、朝廷に対する感謝の気持ちを捧げた。

五條村の某氏の記録に従って四十名余りの氏名を記せば次の通りである。

松本傳右衛門、北谷国吉(以下略)等であり、その高取城攻城の際に戦死したのは橋本秀祐、山香愛之助、中勘蔵、倉本常之助、油上覚兵衛、今西甚之助、丸谷源之助、田中安二郎、岸尾徳三郎、北本重二郎、玉置佐助、島本嘉吉、乾虎蔵の十三名であった。

御使者が高取城に入ったのは、十日の夕刻であった。

その一方で、其の夜若狭の小浜城主酒井若狭の守の家来で三浦帯刀京都守護職が指揮をとり兵八百名を率いて、我が十津川郷人で捕 虜になっている者達を受け取るため同じく高取の土佐町に到着した。しかしながら獄に捕えられていた者達は十二日を以て赦免を被り、全員十津川村に帰った後 であったため、双方で議論が紛糾したと云う。

○十三日 御使者が五條村に入ると、直ちに紀州藩に命令をし、五條に捕らわれていた十津川郷士をすぐさま解放なされた。ついては朝命を帯びて帰郷する千葉定之助を途中で抑留した件については、厳しく詰問を受けた末、陳謝の辞ではなく謝罪の文書を提出させたと云う。

○十九日の御達しに曰く、

「来る二十二日風屋村にご宿泊の際、翌朝に仰せ渡したい事があるので、十津川下郷につき総代二名それぞれ印鑑を持参するよう に、又下郷の中で、さきの事変に於いて各藩に捕えられていた者達も此の度び格別のご憐憫をもって御赦免下されたので、二十二日夕刻までに風屋村まで出頭す るよう申しつける。

        禁裏御所御使 渡辺相模守内   山田権六

               東辻国書権助内  中島猪三郎  」

○二十二日 御使いの御二方は風屋村に出向きz謇@を其の宿舎とした。翌二十三日仰せになられた内容は次の通りである。

「十津川郷士は古より重く朝廷を奉じ忠誠を尽くしてきた者が数多くいる事はよくわかっている。従って去る七月より食録を支給し 一層朝廷に尽くす意思も深いところに、八月中旬、元中山侍従が率いる浪士たちが偽勅を唱えて郷士を欺き、あれこれと混乱を生じている最中に紀州・藤堂・彦 根・郡山の四藩に浪士追討の命令が下され、各藩の尽力により次第に平穏になりつつあるが、十津川に於いては郷中で引き続き混乱の状態にある様子と聞いてい る。ついては、御使として渡辺相模守と東辻図書権助が派遣されたので、今後はその趣旨を理解し、以前のように一同融和して勤皇に精励するよう説得致すもの である。

  十月七日   」

又、十津川郷の四境の要路に木を切り倒し、浪士追討の兵が入郷するのを妨げようとした者達には

「元の中山侍従が御触れとして出した偽勅を信じ、各所にて追討の兵の進路を妨害したその罪は決して軽くはないが、格別寛大なご配慮により罪を問わない事とする」と達せられた。

ここに、一同は次の通り受書を進呈した。

「十 津川郷士に関しては、昔より朝廷を重んじて来ており、その為去る七月から朝廷より食録を支給され、深く感銘いたしているところ、八月の中旬に浪士共が偽勅 を唱えて郷士を欺き混乱を来すに至ったが、四藩に浪士追討を仰せつけ、御蔭を以て十津川郷内は平穏を取り戻す事が出来た。とはいうものの郷士の間では引き 続きあれこれと混雑しており、此の度び鎮静のための御二人の御使の御巡幸下さり郷士一同の御説得賜ったのは、誠にありがたき事此の上なし。ついては以後郷 内は心を一つにして勤王に励むべく、右の受書をご提出いたします。」

○二十三日 御使の籠は高野山越えで出発帰路に就かれた。

警護として郷人数十名が同行した。

此の頃会津藩の外島機兵衛が次の和歌を詠んでいる

「ひとたびはかき濁せどもすみかえり 清き名流す十津川の水」

かくして、御使が京都に到着するやその日に随従の郷人一同に参内するよう仰せつかり、恥ずかしくも料理代として七円五十銭を頂戴した。

一同は皆朝廷の御心遣いを有り難く頂戴して退庁した。

○先に紀州藩と彦根藩に捕らわれていた郷人は皆無事に解放された。

○十一月一日付をもって、突然高取城主植村駿河の守から御触れ状が送り付けられてきた。

「一、今般その方の村々は駿河の守が当分の間御預かりを仰せつかったので、近い内に呼出しをして詳しく内容を伝えたいと思っているが、取り急ぎこの件申し伝えるので、此の触れ状に村の者達は受印を押し、日付を記入して順次回覧した上で返却すべき事。」

しかしながら、我が郷は先日傳奏が御支配なさるとの朝命を受けており、今更何ゆえに他の管轄を受ける理由があるものかと、長殿村は触れ状を手元に留めてその件を在京者に報

告した。

一方、追討の兵が郷土に迫っている際に、中でも紀州兵はその丹生の川陣所から次の内容の傲慢無礼な書面を送って来た。

「十津川郷民はもともと愚か者たちではあるが、此の度の所業はあまりにもお粗末である。

従って一刻も早く我らが丹生の川本陣に降伏して、これからは末永く紀伊殿に隷属する事を誓うのであれば、天朝・幕府に対しては紀伊殿からよろしく取り持ちをしてやるので云々」

此の時山本喜平は彼らから委嘱され我が十津川郷民をこれに従わせようと努めたため、西川地区当たりでは既に請書を提出した村も出てきた。
それがさらに広がり斡旋が四村組にまで及んだところで瀧本右京、久保彌右衛門、西村信之進が固くこれを拒絶した。
その上さらに高取藩の触れ状が回付され郷人は皆これを不満としたが、先ずはこれを御支配の傳奏方に伺う事とした。

○十日 傳奏方より左記の通り御達しがあった。
「一、所願ならびに届、宗門を変更、及び訴訟等は今後御支配の傳奏に提出すべし。その他の筋には一切提出致さぬように。

一、 村々の役名はこれまで庄屋、年寄りとしていたが昔に戻し庄司、目代と為すべ き事。

 右の通り仰せがあったので郷中融和して以後中世に励むべき事」

この御達しを入手するや直ちに先の触れ書を高取藩に返却した。大方源左衛門、上平主税がその時の総代であった。高取藩では極めて不満の様子であったと云う。

○同月 各村から総代が田良原村に寄り集まり、これまで頂戴した御沙汰書等をすべて集め宝箱に納めて今後一致協力することを誓い合った。

先月 幕府から救済金として七百両が十津川郷に下された。これは、会津藩の周旋によるものと言われ、中には疑念を抱く者もいた。すなわち、これは恐らく 我々の感謝の気持を後日利用しようとする計略であろう、従って今この金を受け取れば後日後悔することになるかもしれないと様々物議をかもしたが最終的には 竹筒村の会場に於いてこれを受け取り分け合った。

十一日 丸田藤左衛門、沼田京蔵、藤井織之助、前木鏡之進、下玉織之助、玉中栄之進、丸田左膳、中井文五郎、小中左源太、更谷数男、内野虎蔵、玉置政左衛 門、前田正人、沖垣郭之進、前田雅楽、寺坂角之進等十六名が津藩の吉田六左衛門、宮田常三郎の二人に案内され鳳城を出発し、伊勢に行った。これは、先に十 津川郷に於いて騒乱の際、神宮に祈願した事ことに関するお礼参りと、又同時に藤堂藩の救援を受けたことに対する謝礼の為であった。

十二日に上野に到着。城代の藤堂新七郎及び藤堂玄蕃の両氏を始め諸氏に面会し、持参した十津川郷産の物産を差し出し謝辞を述べ、諸氏からは、又丁寧な答礼を受けた。

○十三日 京都に駐在の郷人百六名はそれぞれ麻の裃を着用して宮廷関係の武家のお玄関に於いて、此の度の乱後の郷内の混乱鎮撫のお礼を申し述べた。

 恐れ多くもご執事衆は此の事を奏上為された。

 挨拶し終わった後、傳奏の飛鳥井・野宮両殿に伺い同様に謝辞を申し上げた。その際、飛鳥井中納言卿は特別に謁見を頂き慰労のお言葉を頂戴した。

 ここに至ってようやく内外の事は全て決着し、人々は始めて肩を休ませる思いを抱いた。

 後の世では、これを天の辻の役と呼ぶ。

○十四日 さて、丸田等の一行は引き続き吉田氏等の案内で津に到着した。

  津藩からは郊外まで出迎えがあり、その翌日は藩主殿からの命令として吉田氏及び柳宗五郎の両氏が一行を誘導して、その地の鎮守八幡宮に参詣した後、山荘を 案内してくれた。誠にもって秀美であった。その日の夕刻は又海荘に於いて、藩主公の代理として城代藤堂仁右衛門氏が面会なされたので、その場で総代等は救 援のお礼を申し上げた。かくして同荘に於いて酒食の厚いもてなしを受けた。ほどよく酒がまわるにつれ吉田・柳の両氏はそれぞれ和歌を吟じられた。

 「おもいきや 琵琶の里人たつちきて あのの海辺に 造酒くまんとは」(吉田氏)

 「あのの津に 吹き来る今日の松風は 琵琶の里より つたいくるらん」(柳氏)

 すると前田雅楽が

 「琵琶の音の 雲井はるかにきこゆるは あのつのきみの しらべなるらん」

吉田氏はまたこれに対する返歌として

 「あののつの きみ添い来なりすめらぎに ながくつかえよ 琵琶の里人」

 その他の諸氏も又詠み合ったと言われる。

十六日は藤堂仁右衛門、藤堂数馬を始め諸家に参上し感謝を申し上げたが内容は上野と同様である。

十七日、吉田氏は執事を使い藤堂侯に熊の皮一枚、椎茸二斗を進呈させた。

そのため、さらに数日間我が一行を饗応され、盛んに槍柔の技を演じたり或いは砲台や武器製造所に連れて行ったり又は相撲や騎馬訓練及び地雷水雷の火焔を実施したり、その他、山荘や海荘に案内しては茶菓や酒肴を出されるなど至れり尽くせりの厚いもてなしを受け、一同は皆歓喜を極めた。さらに、二十五日には、藤堂侯が初めて諸重臣を従えて阿濃の海辺にお出ましになり、大訓練を実施して示されたのには最も爽快な気分であった。

其れが終わった後、海荘にて藤堂侯が直接お会いになりこれからもよろしくとのお言葉を頂き、桑名彌次兵衛、水沼久太夫から渡された書付は次の内容である。

   為

御守衛として京都に出張為されたことについては、かれこれ多額の出費も伴ったと聞き及んでいる。もし費用の件で御守衛に関して手抜かりが生じるような事となればよろしくないものと深く配慮いたしている処であり、些少ではあるが右の費用の足しにでもなればと助成致すので、御守衛の事は引き続き手厚く尽力してくれるよう願いたい。

 右は金三百円の目録である。

又別の一通には、

朝廷御守衛のため京都に出張するについては、武器も充実する必要があるだろうから

  六匁銃 五十挺 小道具共

しばらくの間貸し渡すので、御守衛には手抜かりの無いようによろしく頼む

尚総代十六名にはこれとは別に六匁銃を一挺づつ賜った。皆は厚くこれを受理した。

二十九日にいとまを告げて山田に行き、一同は三十日に伊勢神宮に参拝した。

○同月 本宮村に於いて紀州藩の岩橋藤蔵から十津川郷の総代、佐古源左衛門、玉井安右衛門、久保喜傳治へ渡された書付は次の通りである。

                 十津川郷中へ

 一、米三百俵

 一、塩六百俵

賊徒追討のため多人数を十津川郷に差し向けた際、そちらの村々には苦労をかけ又出費もかなりのものであったとの思し召しによりこれを下される。

 一、金百両

 賊徒追討の折、人数を差し向け十津川郷内の人家を焼失し、かつ紛失した物品もある様子につき、これを下される。

右の米、塩は新宮湊から順次搬入された。

○十二月二日 前田雅楽、前木鏡之進、中井文五郎の三名は津藩より拝借した銃器を京都に運搬するため再び津に戻り、その他の諸氏は高見山を経由して帰郷した。

更谷氏が記した伊勢紀行によって前後の概略は以上の内容である。

○御所御守衛に関する規則四条を定め支配所から次の通り達せられた。

    定

一、警衛に携わる者は年に二月と八月の二度の交代とし、それ以外はみだりに出入する事が無いように。やむを得ず私用で上京する場合はその都度別に宿を手配の事。

一、人選については、これまでのしきたりに関係なく若くて元気な者を選定する事。

一、郷中の管理については何事についても上に伺いを立てた上で執り行う事。

一、郷中の一同はもっぱら文武修行にはげむ事。もし旧習にとらわれ姑息なものが居る場合は直ちにその旨申し出る事。

   右の規則は御所には伺い済みである

○十二月二十五日 初めて御所に、年末の挨拶として、十津川郷産の椎茸五貫目を献上した。その際中井内臓、増谷政之進等が総代であった。

これより後、毎年正月の祝賀に竹筒千本、八月一日(収穫祭)には椎茸五貫目、年末は粕漬けの鮎二百匹を献上し、その都度お返しに御盃、ご酒肴、お菓子等を賜るのが恒例となった。

その後慶応三年十二月に朝廷御了解のうえで、年賀は鷹の羽で作った的矢二手を献上する事と改め、八月一日の御進物は中止となった。

○元治元年正月 年賀として関白二條公に筒竹三百本を献上。

○二十一日 生鯛一掛(一本の縄につるしたもの)を島津三郎候に進呈した。永年の勤労に対する恩賞として従四位を与えられ、大隅の守に任命された事を祝賀するためである。

○二十九日 同じく生鯛を山階宮殿下に献上しご還俗をお祝いし、これに対し殿下からは褒美の金を賜った。

○二月 議奏、伝奏両職の護衛を命ぜられ、兵士約四十名で通常各家四名乃至八名が交替して勤番することとした。これは当時、京都の各所に於いて数々の乱暴を働く者がいて世情は不穏な情勢にあったためである。

○同月 我が先輩達は藤堂家に依頼し、前田正人、上平芳人、玉置猪恵を津藩に派遣して、清水幾太郎のもとで撃剣を学ばせた。津藩では従来からの好誼により費用は全く受け取らず応じてくれた。同年十一月になって三人は帰郷した。

○同月 以前からの志を継承して支配所に次の内容を上願した。 

  紀州新宮藩は港にて二分口役所と称するものを設置して上流から積み出してきた材木類に対して多大な税金を賦課し徴収している。そのひどさ加減は次のごとく である。たとえば、材木の売却代金が銀十貫目のものに対してその上に三割を上乗せし、十三貫目を計算の基礎とし其れに対して四割の一分三貫二百五十目を徴 収している。以前は実際の取引価格が一貫目とすれば其れに対して銀二十目、すなわち二分口を徴収するだけであったが、近年はその名前に反して実際の価格の 二割五分とし、さらにその上に実際の価格に三割も上乗せしているので実際の価格に対して三割二分五厘もの税金を徴収されるに至っている。ご存じの通り我々 十津川郷は大半の者が山林から生計を営んでおり、即座にその影響を被っており非常に苦労をしている。これまでも数回その筋に嘆願してきたが、あにはからん や、未だに状況は変化せず、甚だ憂慮しているところである。何とぞ、本郷は昔から租税は免除されてきた由緒がある事を勘案して頂き、右の口銀は全免の御沙 汰を下されるようお願いいたしたい。願いを聞き入れて頂いた暁には郷士共が御守衛にあたる際の用度の準備に関しても十分賄う事が出来る事であろう。云々

此の頃 郷内外の諸費用を補充のため、郷中の内部から伐採して出荷する木材は、新宮の湊で売却代金の百分の九、つまり九分の割合で銀を徴収する事に決定 し、支配所の認可を得て、七色、竹筒の二村に木材取調べ役場を設置、丸田兵部、瀧本右京にこの取り扱いをさせた。この制度は、後明治二年十二月に出張兵部 省の達しによって廃止となる。

○三月十六日 新年の祝賀として、矢用の竹五百本を幕府に進上するに先だち、十津川産を進上し祝意を表したいと支配所にお伺いを立てていたところ、許可が出たので総代を派遣し、古式に従って京都町奉行所に参上し、奉行小栗下総の守と面謁した上で品物を進呈した。

○二十六日 京都に出張中の深瀬仲麿、吉田源五郎、田中主馬蔵は、は紀州藩の吉本五助、鍵野孝之丞の招請に応じて二條木屋町の伊勢屋某方に於いて会議をした。内容は新宮湊の口銀に関してであった。

 これは、先立って中川の宮及び薩摩藩、土佐藩、藤堂藩、会津藩の諸侯ならびに先日鎮静使であった渡辺、東辻の両氏等にかかる口銀の廃止の仲立ちをしてほしいと何度となく依頼してきた結果である。

○四月一日 深瀬仲麿、田中主馬蔵、吉田源五郎を総代としてさらに先の嘆願書を携え京都の二本松にある薩摩藩邸に参上し、これを島津大隅の守に提出した。

 留守居役の内田仲之助、赤井達之助の両氏が懇ろに対応してくれた。

「新宮湊における口銀の件は昨年冬以降折に触れてその筋に嘆願いたしてきたところであるが、先方に於いても何らかの申し分もあるらしく、ご判決が困難な様子で、未だに何らのお達しも出てこないので、当惑している事は既にご承知の通りである。

   十津川郷は山中孤立の土地であり、万事、何かにつけ不便な地であるけれど、此の度は朝廷御守衛の御用を仰せつかり誠に感謝いたしている処である。一同心 をこめて勤王に奉仕したいと誓い合っている。しかしながら全てに乏しい郷中であり、ほとんど五百年もの間、世間から埋没してきたため、文武の道も甚だ未熟 である。従って武器等も十分に準備する事が出来ない状況である。誠にもって朝廷に対しては申し訳ない気持ちでいっぱいであるけれど、いかんともしがたい。 只、新宮湊の口銀の件さえ解決致せば郷中での諸事はうまく運ぶものと思われる。当然のことながら、銘々が勝手なことを願い出ているわけではなく、何事も朝 廷の御警衛に不都合があってはならぬとの一心で、このような無理を承知での嘆願を致している次第です。何分にも微力の十津川郷が止むにやまれず願い出てい ることを御推察下さり、朝廷への御奉公と御理解いただき宜しくお取り計らい下さるよう願い上げる。昨今の時勢下何事も思うに任せぬことも多い中、郷中一同 昼夜懇願致して居るところであります事をご賢察下さり、くれぐれもよろしくご了解下されますよう伏せてお願い致す次第である云々」

尚又、四月六日丸田藤左衛門、深瀬仲麿、千葉佐仲、田中主馬蔵、吉田源五郎等が文書を議奏職に持参して口銀の廃止を請願した。
その月の二十八日には薩摩藩の村山と土佐藩の福富の二人に同じく口銀を廃止されるよう仲介を依頼した。
両氏は以前鎮静使に従って十津川に入郷した経緯もあっての事である。
かくして、前後頻繁に口銀廃止につき切願してきたものの、未だ機は熟していないものと見え、思いを達する事が出来ていない。

○此の月(六月) 御守衛の手当として吉野、宇智、宇陀、葛上の四郡に於いて硝石を製造する事を許可された。そして下市村の甚兵衛と須惠村の定助、朝町村の徳右衛門等を御用係としてその事業を開始した。しかしながら暫し後に廃業する事となった。

○此の頃支配所から吉野郡の諸鉱山を開坑する事についてその可否を諮問された。その際、在京の各氏は全員署名の上回答した。

その大要は、「もともと吉野郡一帯については、皇国第一の霊地であり、もし開坑するとなれば朝廷の御盛衰にも関係する事となることは、古来より郷中の口伝えにて云い伝えられているところでもあり、開坑は決して良い事ではありません。もし、開坑を望む者があったとしても決して認可なさらぬよう望みます。云々。」
その後しばらく開坑はなかったものの、数年の間に鉱業は大々的に盛業する事となった。

少し以前より奈良の鍛冶師平松一治と装具師山岡重吉等に盛んに刀剣を鍛錬創作させていた。当時の流行で、青年壮士達は朱鞘に白柄の作りを好み競ってそれを 身に着けた。これはそもそも、本州高田村の島内蔵之進が山岡等を案内して京都の十津川邸に連れて行き田中、吉田等に紹介したのが始まりであった。その後京 都の北山のあたりに居住する土佐の人南海太郎某にも多くの長剣を作らせた。

○同郡の北山郷は従来より御用材と称して、檜・栂・椴松の三種の材木百八艘(長さ二間三床幅四尺を一艘と云う)を幕府に上進し、幕府はこれに対して銀七十五貫目を支給。そのうち九貫目を北山郷の地税とした例がある。

  其れにならって我が十津川郷もまた格別問題もなく無税とされてきた恩に報いようと右の材木を北山郷の池原村から新宮湊まで筏を乗り下す人夫を出す代わりと して毎年乗せ賃を若干北山郷に払い渡し、又幕府から給付金として毎年米七十八石七斗五升を金銭で支給されてきたが、最近になって、その筋から内々に話が あったようで、今後もこれまで通り人夫を差し出さないかどうかを北山郷から問い合わせて来ている。

 其れに対する回答は、本郷ははるかに古くから朝廷の直轄となっているが、その後の状況も変革しており、全て今までの申し合わせはなかったものとして、今後人夫を差し出す事は中止してほしいとの内容であった。扶持方米についても給付を断ることにした。

○五月四日 折立村の松雲寺等を仮の文武館とし、村ごとに郷費生徒一名づつを出させ、朝廷の儒官である中沼了三が命令を受けてやって来て、臨席し開館の式典を行った。

 この日、中沼先生は大学の三綱領を提供してくれた。上平主税、吉田源五郎等が京都から駆けつけてきたが、既に先生は京都に帰った後であり、先生の門人の加藤鎌次郎が、その後教授する事となった。但し剣術は十津川郷の先輩が指導する事となった。

  これより、書物を読む声や竹刀の音が連日響き渡り、高取藩の剣術家杉野楢助や元土佐藩士の大村力三郎等がやって来ては、共に剣法を教授した。そして、郷の 役員達は交互に文武館で当番をして京都と連絡を取りながら庶務を処理した。このことは、郷の先輩達が、文武の指導が不十分であることを心配し、朝廷にそれ となく嘆願してきたのが、ついに恩命を受けてここに運良く開校する運びとなったものである。ちなみに、中沼氏は、隠岐の島出身の人で、学問は朱子学を得意 とし、癸亥の年五月以来我が十津川郷の事に関与して、多くの事を企画した。その子清蔵もまた文武館にやって来て、長年生徒を薫陶してくれた。先生は丁卯の 年の冬に参与職に任命され、その後維新の後には侍講に昇進された。その後官職を辞してからは西京の東山で閑居なされている。

六月二十六日 京都から警告の知らせが届いた。その内容は「現在、十津川郷から京都在住の人数はわずかに五十人である。しかしながらこのところ長州藩から 兵が続々と押し寄せ既に山崎の天王山等に集結し一挙に行動に出そうな勢いで朝廷から民間まで騒がしくなってきている。従って速やかに多くの郷士を上京させ てくれる事を望む」とのことである。この報告は直ちに十津川郷全体に伝わり、京都に駆けつけた人数は百五十人に上った。衣棚通夷川上る花立町の大井一郎右 衛門の所有する家を借りて十津川の屯所と決めた。

○この日 千葉佐仲と上平主税が総代となり傳奏方へ次の内容の建白書を提出した。

  「此の度、長州藩が願い事があると多人数上京して来て居るとの事。ついては、会津藩をはじめとして、厳重に守衛の人数を京都に向かわせている由。しかしな がら長州藩には、これまでいろいろと考えるところがあり、多数で卿に押し寄せる事となったものであり、又、会津藩は守護職にあるため其れを中止させようと するのは当然の事であるが、万一ここに戦が始まれば、現在置かれた状況下では国家はたちまち崩壊してしまう事は明白であり、容易ならざる事と考え、直ちに 朝廷から双方に対して御鎮静頂けねば大変な事態になるためなんとか打つ手はないものかと郷士共一同憂慮に堪えず、もし幸いにして御勅使から指示を頂けれ ば、御守衛のことは郷士共に御命令を下されるようよろしくお願い申し上げる。この件はまだ詳細に事情を調査したわけではないが、現今の只ならない様子に、 手遅れになってはどうしようもないため取りあえず建白申し上げるしだいにつき、何とぞ以上の事を宜しくお願い申し上げる」

○七月四日 堺町門外の東方にある御文庫の守衛を命ぜられた。

 玉置政左衛門、玉中右平を始め二十人が交代に番をして御文庫を守衛した。

十九日 明け方突然銃砲の音が禁門に轟くのが聞こえた。そのため妙法院の里坊に駐在していた十津川郷士の隊百三十余人は急遽結集して承明門まで駆けつけ た。既に薩摩藩は会津藩と一緒に攻撃してくる長州兵と激戦をしており、蛤門内、公卿門外は既に入り乱れて戦いの最中であったため、我が十津川兵は薩摩の隊 長に連絡を取り、銃弾が乱れ飛ぶ中をかいくぐり、御台所門に到着したが、門は閉ざされており中に入る事が出来ず、やむなく向きを変え東門外の学習院に入っ てしばらく機を窺っていたところ、命令が届き、日華門の脇門から禁内に入り北部屋と云う処に集合し次の命令を待った。

  此の時の食料はすべて御所から支給された。また別動隊の議奏傳奏及び御文庫を守衛する護衛兵は、此の変事が発生するや否や、藤井織之助、田中賢七郎は里坊 から直ちに衣棚の屯所に駆けつけ素早く人数をまとめて堺町門まで行ったところ通行券を所持した二名は門内に入る事を許可されたが、それ以外の兵は守衛する 松江藩兵に入門を拒否され立ち往生をさせられる事となった。そこで先の二名はやむを得ず傳奏殿に行き事情を説明し、入門許可証を入手し元の堺町門まで戻ろ うとするその直前に既に鷹司殿には火焔が上がり、銃弾が飛び交っており、近づく事が出来なかった。そのような状況であったため、市民はみな負傷したり、叫 び声をあげて四方に逃げ惑っており、放たれた火事を誰も消火しようとする者もいないため、火は何日にもわたって蔓延し市街を焼き払い、壮麗であった都の風 景も一変しほとんど真っ赤な焼けた地面となった。かくして長州藩は敗北し、大将の来島又兵衛や久阪玄瑞らは皆死亡し長州軍は完敗して長州に逃げ帰った。

○今後は中川の宮の守衛を命ぜられた。

二条の衣棚に集結していた者たちは次第に京都に帰って来て云うには、当日我々は全員堺町門外に待機して、藤井、田中の返事を待っていたところ、にわかに門 の内外は戦闘状態になり銃弾は雨のごとく飛び交い、火焔はあちこちで上がり最早猶予するいとまもない状況となり、我々は全員二条の衣棚に退避したところ、 火災は瞬く間に広がり押し寄せてきた。そこで次に祇園神社の奥の山内に逃げ、周りの様子を窺っていたがとうとう九門の内部に入り込む事が出来なかった。急 な事であったため食料もなく、山科郷に行って調達しようとしたが、其れもできなかった。最早進退きわまり、取りあえずひとまず大和の国の五條まで引き上げ ることとなったが、玉置多仲、北村伊左衛門等数人は河東田中村の知り合いの家にとどまり守衛の本隊に帰還する事が出来た。この遠方に退去した一件について は、京都に駐在する者たちの中では盛んに議論されたが、また止むを得ざる事実もあり先ずは、その顛末を支配所に報告した。

○二十二日 御所の守衛のため我が隊は再び学習院に移動した。なお、御台所より食料が支給された。

 二十三日命令により下賀茂松林寺を屯所として賀茂神社を守護する事となった。

此の数日前傳奏の野宮家から郷士の総代は出頭するようにとのお達しがあり、直ちに藤井、田中の両名が申し合わせ、参殿したところ、雑務係から十津川郷士は 御所の御守衛はしなくてよいので勝手に帰国しても差し支えない。但しこれまで貸し与えられていた学習院と宮様の御里坊は別に使用される予定もあるため、す ぐに出て行ってもらうことになるだろう。との口頭での通達であったため、総代等は驚愕しいったん退去した上で一同に伝えて協議した結果、次のごとく返答を する事となった。「此の非常事態の中で我々に京都を引き払い帰国せよとは思いもよらぬ事である。そういうことであれば今後、屯所をどこかに見つけるとして も、非常に難しく、仮に見つかったとしてもその費用の支払いが出来ない。従って二条から三條あたりの賀茂の河原に天幕を張って宿舎とし、しばらく天下の形 勢を窺いたいと決心したので、この点ご許可いただきたくお願い申し上げる」と。するとすぐその日に学習院に移り下賀茂神社の守衛をするようにとの命令が下 された。右ごとく、突然御守衛が一旦免除となったのは、もともと朝廷の御意思ではなく、幕府方の計略であったものと想像され、朝廷に対しては恐れ多い次第 であった。

○八月六日 非常時の御手当として御所より米十石を頂戴した。

○十二日 寺町通り石薬師下ルの中宮寺宮里坊を仮の屯所とし、賀茂護衛の人数を分割しここに移動させた。

○十四日 鮎、椎茸の二品を藤堂大学頭に進呈し昇進の祝意を表した。後日藤堂侯から金千疋を贈られた。

○十五日 ようやく京都も静穏となって来たので、在京の人数を百五十名とし、残りは当分の間帰国させるようにとの傳奏方から御達しがあり、それぞれ帰途に就いた。

○同月 文武館で修学したいと希望する子弟は二十五銭の月謝を納めれば入学させる事とし、なお一層文武の道に力を注いだ。その後慶応二年三月には月謝を五十銭に増額した。

○此の頃、京都に守衛として滞在する郷士の期限を改正し、二月、八月、五月、十一月とし、それぞれ六カ月ごとに交替する事とした。

○十一月十八日 賀茂の護衛を免除され、松林寺の兵士は梨木町大乗院門跡の里坊に移動した。

此の月、御守衛のため新たに京都に邸宅を設け、今後の引っ越しなどに関わる費用を節約しようと考え、新烏丸切通しにある円満院宮所有の土地を借り、年間十 五円の借地料を支払う内容で契約。材木は全て十津川より運搬し、其れに関する費用は各家均等に割り当て、有志者からの出資、金持ちからの借金の三通りの方 法で合計二千五百円の予算で翌年春着工する事とした。

○十二月 折立村の平山が縁起が良い地であるため、文武館新築事業を開始。二十一日に礎石を置き、二十二日に上棟式を執り行った。小森村の植田庄作がその棟梁となった。

同月 京都より連絡があり「このごろ水戸の浪士数百人が上京して訴え出ようと、既に濃州地方まで出向いてきているとの噂があり、幕府はこれを阻止しようと の意向であるけれど、既に当月二日に一橋の兵、三日には加賀やその他の兵が続々と大津口に集結しておりいつ何時異変が起きてもおかしくない情勢のため早急 に丸田、上平、田中、吉田に上京させて欲しい」との事で、各諸氏はそれぞれ京都に向かい出発した。

○慶応元年正月十六日 文武館の工事が完了したため、新館に移転した。

○二月十四日 十津川郷で焼いた木炭十俵を御所の御台所に献上した。

○二十五日 京都町奉行所の質問にたいし次の通り回答した「今般十津川郷の京都屯所を建築するため、郷里から運搬する用材は約三千本であり、澱川を搬送するのに要する船は約三十艘以内である」

○玉置織之進は御守衛の準備をするため、銀杏峰の楢の木五十九本を京都の十津川屋敷に寄付した。またこの頃添上郡丹波市村の岩井源助を武器調達係に任命した。

○この春初めて文武館から郷中の各所を巡回して文武を教え、其の両道を奨励した。

○十四日 鷹を一羽と木炭五俵を関白二條公に差し上げた。

此の月 勅使飛鳥井中納言が江戸及び日光へ出向かれた。我が郷から榊本常十郎、樫平兵部、中西幸之進、林勘十郎、上谷甚平、玉置猪之恵、中上達蔵、上東政 太郎等が護衛のため随行し、五月二十日に帰京された。随行中に飛鳥井中納言より幸之進が賜った歌に「ニゴリナキ 流レヲクミテトオツ川 ミナカミトツクス ミマサルラシ」と云うのがある。

○郷人で長く京都に駐在する者の中には、最近華美が身に付いてきた者もあり、しばしば仕送りが足りないと連絡してくる。年配者はこれを非常に心配し、今後羽織は平生地、袴は小倉縞を用い、その他の事もこれに準じ全て質素倹約を心掛けるよう規則を定めた。

○四月七日 京都の十津川邸の上棟式を行った。二十八日には工事はほぼ完了し、在京者は全員新邸に移った。

○閏五月十九日 京都東町奉行小栗上総の守が守護職会津肥後の守の指揮と称して田中邦男を捕え牢獄に投じた。 その嫌疑は、水戸を脱藩した浪士鯉沼伊織が十津川を訪れた際、密かに川瀬太宰、村井修理之進等と吉野山の後醍醐天皇の尊像を擁して挙兵しようとたくらんだためという。 かねて鯉沼は幕府から疑われていた人物であるが、最近になり京都の十津川邸に出入りしていることを察知し、さらに邦男が藤井織之進、前田雅楽等と、長州に逃れている七卿を京に召還しようとして、議奏正親町三條卿へ建白いたしたところ、三條卿は、そのことを中川の宮に相談され、中川の宮はさらにそのことを肥後の守に伝えたことからこの様な事態になったといわれている。鯉沼氏は後年香川敬三と名を変え宮内少輔となった。

○このころ吉田俊夫と前倉右衛門は郷士の練習用に「ミニヘール銃」を借用しようと考え、二本松にある薩摩邸の西郷吉之助に面会したが、他の話題に話がそれついにそのことを言い出す機会がないまま帰ってきた。

○土佐を脱藩した浪士、浜田辰弥と那須盛馬がひそかに十津川郷に入り、文武官及び諸家に宿泊した。浜田氏は学問に詳しく、那須氏は剣術に優れていた。当時は土佐藩を脱藩して勤王を唱えるものが非常に多く、中でも二人はその最たるものであったため、当然のことながら十津川郷は多くの浪士をかくまっているとのうわさが言い触らされることとなり、幕府からは疑いの目を向けられることとなったため、浜田氏は田中邦男が引受人となり、田中顕助と名を変えた。後日土佐藩の中岡慎太郎に誘われ再度長州に赴いた。また那須は十津川郷内の処々で潜伏していたが、その後いったん十津川を去り、やがて再び入郷し文武官で剣術の指南をすることとし、一方では郷邸の郷人から西郷吉之助に那須の身元を打ち明け、薩摩藩士として受け入れてもらい、姓は南北朝時代の片岡八郎にちなんで片岡とし、名は勝手に名付けて保護をしてくれるように依頼した。西郷はその場で十津川郷の役に立つのであればいかようにも当藩で引き受けようと承諾してくれた。

その翌日であったと記憶するが、「わが藩士片岡源馬が十津川郷に入郷し、剣術の指南をしているのでよく心得ておくように」と薩摩藩士たちに申し伝えがなされ、また、わが郷にも同じく通知を行った。現在の陸軍少将兼参事院議官である田中顕助の侍従片岡利和がまさにその当人である。

○八月十七日 京都西町奉行瀧川讃岐の守が肥後の守の意向を受け深瀬仲麻呂を拘束した。

そのわけは、深瀬が田中邦男とひそかに公卿と諸藩の仲を取り持ち薩長間の軋轢を調停しようと企てているとの情報を入手したことからそれを阻止せんがためであったといわれる。

○十月十二日 先だってより、摂津の海域に外国船が来航し、周辺の諸国が騒がしくなってきており、朝廷を護衛するわが郷人は、わずか百人しかおらず、さらに二・三百人を徴収し万全の備えをしたいと申し出ていたところ、この日傳奏野宮郷から次のような通逹があった。

「この頃のご時勢下京都の人数が百人では、ご守衛が行き届かない恐れがあるとの御懸念で、さらに二・三百人増員なされてはとのご意見、気遣いは有り難いが、幸い事態は沈静化してきており、外国船も一昨日全て退いたため、その必要はなくなった。

引き続き万一の場合に備えしっかりと護衛に励んでいただきたい」

○十一月 折立村に集会所を建てて、文武館に勤務する役員は皆ここに移り各種事務を執り行うことなった。

○翌年一月 良隅御所が改築されることを知り、かねてより材木の献上を願い出ていたところ、ようやく許可が下りたので、郷の山からヒノキの丸太で七から八寸角の面積の取れる良木を五十本伐採し、新宮上船町の津越覚兵衛、大阪長堀白髪町の新宮屋長兵衛、伏見丹波橋の茨木屋卯兵衛、京都高瀬松原下ルの丹後屋長四郎等にそれぞれ運搬の取り扱いをさせる契約を結んだ。

○慶応二年一月 我々が材木を献上することに関して、紀州藩より支配所に次のような内容の申し立てがあったと支配所から書面を提示された。

「以前、関東から禁裏御所建築にあたり、材木が送られた際に、事前にその本数、大きさ、用途などの仕分書が廻示された前例もあり、このたびの献木も同様の手順をとるべきである。また紀伊中納言の領地を通って積み出す材木への口銀は、昔からその量にもとづいて課徴されており、禁裏御所に献納する材木にも口銀が課された前例もあり、今般も口銀を差し出すように十津川郷に通逹して頂きたい云々」であった。

従ってそれに対する回答として、

「郷中から御所に対しての献木は今回が初めてだと思うが、江戸の本丸・西の丸等の建築の際はたびたび材木を献上しており、その際、いまだかつて口銀など差し出したことは一切ない。ましてや、このたびは禁裏建築用の材木を献上するのであり、口銀を差し出すのはお断りいたしたい。もっとも、材木の本数等は既に新宮にお知らせ済みである」と。

その後ついに口銀を徴求されることはなかった。

○三月 千葉定之介、上平主税、吉田俊男等が神宮に参拝した。その帰途阿濃の津に行き水沼久太夫、吉田大左衛門、三宅源蔵の諸氏を訪問し天の辻の一挙の際配慮してもらったことに謝辞を述べた。
十二日に、水沼氏は藩主の意向として、京都ご守衛の費用の助成金として、目録の通り金二百両を贈呈するので京都の藩邸にて受領されたいと伝えてきた。
千葉等はその厚意に謝意を表して帰途に就いた。
この件は、ひとえに津藩の深井半左衛門が周旋してくれたおかげである。

 

○四月六日 総代上平主税、上田采女は飛鳥井殿において献木の目録を上呈した。

 

○四月十六日 田中邦男、二十一日には深瀬仲麿の嫌疑がともに晴れ京邸に帰ってきた。

京邸の者たちは皆二人を迎え入れ拘束中の労をねぎらった。

ただし仲麿は病気のため十一日間旅館に預けられていたが、その後全快した。

○五月八日 傳奏飛鳥井卿から次の通達があった。

「このたびの献木は、まことに持ってあっぱれな心掛けである。従って白銀五百枚を下賜致す。」

○七月初旬のころ 奈良町奉行安藤駿河の守の家来が十津川郷の刀剣用達をしている刀鍛冶、平松一治、山岡清蔵を呼び出し、かつて備中倉敷の代官所に攻め入った浪士のうち九名ほどが十津川郷に潜居しているとの噂がある。

今もなお潜居し続けているとすれば、十津川郷も一緒に処分する必要がある。従って十分に調査するようにとの京都守護職から内々に命が下され、役人たちを引き連れ十津川郷に向かったところ、各関門は厳重に閉ざされており立ち入ることが出来なかったため、引き返し、その旨報告してきた。

従ってその方達は、刀剣の注文を受け十津川郷に出入りしているとのことで、さぞや今でも注文を受け届ける品もあることであろうから、直ちにその引き渡しのためとして立ち入り、浪士の件を調査させるための役人二名を同伴してもらいたいと、浪士の人相書を示して、さらにこのことは内密にと申し添えた。

たまたまこの日は、山岡利兵衛が京都に出かけて留守だったため、それを理由に平松等はいったん帰宅した。ところがその日の夕刻利兵衛が京都から帰ってきたため、その情報が直ちに役人に察知され、再度呼び出しを受けた。

そこで再度調査協力の依頼があったが、利兵衛が言うには、もし浪士の探索のことが相手に知られてしまっては、我々の身に重大な危険が及ぶことが懸念される。その時は妻子が生死の瀬戸際に立たされると予測されるとして一旦は辞退を申し入れたものの許されず、逆に、そのような申し立てを行うとはその方共も彼らの仲間として拘束されることとなるぞと威圧されたため、仕方なく了承したふりをして下がり、その一方で事の次第を十津川郷に密かに知らせた。

かくしてその月の二十日に利兵衛、一治および変装をした二名の役人の計四名が奈良を出発し、やがて長殿の関所に到着すると、密かに知らせを受けていた関所の者は故意に怪しむそぶりをして、入れるのを拒んだ。事前に打ち合わせをしていた筋書き通りであり、やがて前田弥左衛門等は最終的には利兵衛の願いを承諾し、文武館までの通行を許可した。

それに先だって片岡と田中は既に郷の別の処に避難させてあったので、偵察者たちはなにも見つけ出すこともできず、疑いもすっかり晴れた様子であった。その後利兵衛たち四人は十津川郷を後に辻堂村まで戻りついたが、そこで五條代官所の雇い探索くせもの職をしていた藤吉というものと出くわした。藤吉は利兵衛等も役人の仲間であるものと勘違いをして、利兵衛をそばに呼び寄せ、自分の知っている次の情報を打ち明けた。

「私は、職業柄たびたび十津川郷に出入りしているので、文武館に片岡が、小原村には田中が、さらに何処には誰それが居るということをよく知っている。恐らくあなた達が調査してきた内容と同じことと思う。もつともこの度は、京都守護職より仰せつけられた新撰組が大和の五條村まで出張してきて、私はその命令で再度十津川村まで調査に行くところである。」と詳細に状況を語った。利兵衛は非常に驚いたが、そのようなそぶりは見せず、適当に相槌を打ち別れた。

さて、どうしたものかと思案しながら歩いていると、幸いにも小川村の人で某という者と出会ったため、藤吉の話をしたところ、某からすぐに関所の守衛に連絡が行き、守衛は藤吉が到来するのを待って捕え、全てを自白させ成果を得た。

その後藤吉は、十津川郷と熊野の境あたりで追放されたともあるいは切り殺されたとも言われている。

念のため言っておくが倉敷の事件に関係した者がその当時、我が十津川郷に立ち入ったという情報は一切聞いていない。

○その月 将軍徳川家茂が大阪城において病に冒された。天使として中納言飛鳥井卿がそれを見舞うこととなり、その際我が十津川兵の隊に守衛するよう命令が下された。そのため、佐古源左衛門、中西幸之進、玉置源太、西村利平、林勘十郎、泉谷好恵、藤沢伊織、深瀬省吾等がそれぞれ裃を着用して槍兵八名、雑兵二名を従えて随行した。十八日に京都を出発し、十九日に登城。この日越前侯が式台においてお迎えし、案内をした。

見舞の儀が終わり帰途、東本願寺に立ち寄り、再び命を受け、十津川郷の京邸の執事、田本文内および前東久左衛門が伏見までお送りし、丸田兵部と玉置杢之助が伏見稲荷前にてお迎えした。

○八月四日 山岡利兵衛等が奈良に帰り十津川郷調査の報告書を提出したところ、翌日駿河の守がそれを携えて上京したという。さらに奈良においては利兵衛たちの報告を信用し、五條代官所から二名十津川郷に派遣した者が、その後行方不明となっておりもしそなたたちに疑いの目がかかるような場合には、一早く当奉行所に逃げ込むようにと申し渡された。

その後利兵衛たちは調査報告書が偽りであることが発覚するのではないかと心配し、たいていは京の十津川邸近辺に滞在していたが、結局翌年の九月にそれまでの奈良の住居を引き払い京都に転居し、相変わらず十津川邸に出入りしていたという。

○同じく八月 千葉定之助と吉田俊男が薩摩藩の内田仲之助に依頼して、京都在住者を薩摩藩の伊集院喜藤太、渋谷泰蔵の二人に就いて、英国式の戦法を学ばせた。

○十一月 十津川郷を支配する傳奏職から次の厳しい通達があった。

 

一、十津川郷には他国の浪士たちが集まっているとのこと。

一、関所を作り、番所を設けて多人数で交代しながら見張っているが直ちにこれを取りやめること。

一、紀州の熊野口から大量の煙硝や火薬が十津川郷に入り込んでいる。

一、密かに何か企てているようで、最近軍備に力を入れているとのこと。

以上の噂が聞こえているため、調査いたす。

当然のことながらそのような事実があれば直ちに沈静化させること。

 

それに対してその日のうちに次の回答を行った。

浪士風の者が立ち入っているとか、玉や火薬を買い入れているなどという事実は全くない。ただし関所に関しては、以前より許可を得て設置しているものであり、ましてや密かに何かを企てているなどとはとんでもない言いがかりで、逆に驚いている。

只、軍備に力を入れているのは朝廷を御守衛する上で必要である為、一層その充実をはかろうとしているところであるが、何分にもまだまだ未熟で満足な状態に至っていない。

どうかご賢察願いたい。

 

その回答から数日もたたない内に、紀州藩が十津川郷の者と話し合いたいと傳奏方に申し入れをしたものと思われ、飛鳥井殿から呼び出しがあり、藤井織之助、沖垣斎宮が参殿した。

するとそこには、紀州藩の三浦休太郎、関甚之助が先に来て待っており、このたび十津川郷に浪士が立ち入っている等の嫌疑があり、隣接する当藩としても黙っているわけにもいかず、それが真実かどうかよく調査いたし、沈静化するようにとの朝命を受けたと説明した。

従って、十津川郷を支配している傳奏に報告し、その上で対処するとの回答を行った。

すると、傳奏からは次のお達しがあった。

 

紀伊中納言へ

十津川郷に浪士体の輩が立ち入っているとの噂があるので、隣接地でもあるからその真偽のほどを調査し、事実であればこれを鎮静化することを申し渡す。

 

以上の命令が下されたため、関所においては滞りなく通過させるよう早々に連絡をいたすようにと。

さらに三浦と関等は話し合い、その際新宮の口銀についての新法の一件や、先年の天誅組の事もあり、自然と貴郷と紀州藩との間に不和の念が生じてきていると思われるが、最近は紀州藩の考えも変わってきているので、決して徳川御三家の権威を主張するようなこともないので、今後は親交を深め、お互いに朝廷にお仕えすることを希望する者である、と。

ここにおいて、話はまとまり、その日のうちに紀州藩は我が郷人を招き、三條木屋町のとある料亭にて懇親の宴会を開くことを告げ退席した。

当日、その招待を受けたのは、藤井織之進、沖垣斎宮、久保弥右衛門で、会津藩の外島機兵衛も加わり酒を酌み交わしながら懇談した。

話題がたまたま新宮湊の口銀に及んだ際、彼らが言うには、この件については、何分にも長年続いていることでもあり今直ちに廃止するには多くの障害もあるため難しいけれども、それ以外のことであれば、何なりとも必ず協力するとのことで互いに約束した上で合意し、今般の御沙汰通り紀州藩を我が郷に調査のため入れさせることとなった。

さらに、銃器等の武装はせず、人数もわずか十数名とし、その上沖垣斎宮と久保弥右衛門がそれに同行することと決定した。

これより先、上平主税、千葉定之助、和田良平、上杉某が京都から急いで帰郷し、在籍の諸氏と協議したところ紀州藩が公然と我が郷に立ち入り、内情を調査するなどとんでもないことで、我が郷の名誉にもかかわることであるから重ねてその筋に請願し拒否すべきであるとの見解にまとまり、直ちにその月の十八日に上平主税と千葉、前田雅楽等を上京させることに決定。但し手遅れとならぬように、前木鏡之進は十六日に出発し翌日五條村に到着した。しかしながら、紀州藩の一行は既に十四日に京を出発し、沖垣・久保と共に五條に到着していた。

そのため取りあえず沖垣・久保の両氏に郷中の協議内容を伝えたものの京における様子は記述のごとくであり、もはや事がここまで進んでいる以上、到底話し合いの余地はなく、この上さらに拒むことがあれば、益々疑われることとなりかねず、入京させざるを得ないと決定し、報告のため前木は上京させ、上平は帰京させた。

その後も長殿ではそれ以上の入郷を阻止しようと、千葉、沼田を代表者として、紀藩と面談させたが、前記の如き成り行きのため、そのまま文武館まで通行させることとなってしまった。

後日の話として、千葉、前田、吉田等は初めから紀藩が入京するのを拒絶する考えは持っていなかったともいわれている。

かくして、二十三日に各組から一名づつ、及びその他指名された者たちが文武館において会談を行った。この日に紀藩も文武館に到着した。

紀藩の者の名は、野口駒五郎、岩橋藤蔵、岩橋多輔、小池十太夫、清水半右衛門、野際慶真、野口順助、木村熊楠その他であった。

二十四日、文武館で丸田監物、吉田俊男、前田雅楽、千葉定之助、沖垣斎宮等が郷の代表として紀州藩士たちと面談。その際紀州藩から一通の文書が提示された。その内容は、次の通りである。

「十津川郷に浪士共が立ち入っているとの噂が立っておるため、隣接する当藩に取締りをしっかりするようにと、このたびの立入調査を仰せつかり、さらに又、事態の鎮静化を命ぜられたが、先だって三浦休太郎が京都にいた際に十津川郷の方々と面談し、郷の仲に立ち入るについて申し入れを行ったところ、このたび沖垣斎宮、久保弥右衛門の両氏より事情を了解し御承諾いただいたところである。

しかしながら、浪士立ち入りの件は全くその心配がなく、十津川郷では引き続き誠実にお仕えしていることが判明した。従ってこれ以上の調査は不要である。さらに紀州侯も従来よりの勤王のお考えにて、深く誠忠に励むようにと考えておられるので、今後とも十津川郷においてはその忠誠心を尽くすようにとの思し召しである。

どうか、我々が貴郷との間に生じている問題については、十分に話を尽くしたいと思うので、何ら隠すことなくご懇談いただくように願いたい。」

当方は、その文書で示された好意に深く感謝の意を表した。

以上の後、取りあえず新宮湊の口銀を全廃することについて申し入れたところ、先方は「この件は紀州に帰った際必ず協議するので、継続して京都において会談を行うこととしたい」との回答であったので、それ以上の申し入れをすることもできず、先方の趣旨に従うこととした。

そのようにして、調査は終了し、二十五日に紀州藩は船で帰途に就いた。

丸田兵部と中島磯之進が本宮村までその見送りをした。

紀藩が滞在中に飲食費として七十五両、宿泊料として六両を渡してくれたため、そのお返しとして、熊皮、鹿皮、羊皮及び塩鮎等を贈った。

二十七日、紀州藩とのやり取りを京の支配所に報告のため、千葉、上平、前田、和田等が上京した。

紀州藩に十津川調査の命が下された際、支配所においては心配なされ、飛鳥井家から家臣中大路采女、野宮家からは中川兵部を十津川に随行させようと紀州藩の大橋左衛門に案内をさせ、紀州の橋本駅まで来たところで、問題なく調査が終了したとの知らせを京に上る我が郷の者たちから受け、安堵して引き返したといわれている。

○このころ京の十津川邸では、京の剣術家吉田数馬を招き剣術を学んだ。

又、土佐藩、平戸藩も平素出入りし、共に剣術の腕を磨いた。

○十二月三日 松平肥後の守の家来、小野権之丞と上田傳次から我が京邸在住の者たちに次の書状が送られてきたため、拝了した上で回答をした。

「手紙にてご連絡申し上げる。寒さ厳しき折、平穏にお過ごしのことと存じ上げ奉る。さて、肥後の守においては国内外の諸費用も要する情勢であり、この時節がら諸事において節約する必要もあり、遠慮するわけではないけれども、今後は時節の贈答については中止とすべく申し合わせを致したいとのお考えである。従って何かものをお送りくださるのは延期していただきたくお願い申し上げる。いかがであろうか」

○五日未明 柳瀬勝治が京邸の倉庫内で自殺した。

同室の者が朝から勝治の姿が見えず何事があったのかと皆で捜索したところ、全身に傷を負い血まみれで倒れているのを発見した。傷つけたと思われる小刀は死体から二間ほど外に投棄され、又、自らえぐりだしたはらわたは、一間半ほど外に引きずってあり、一同その惨状に驚いた。これは、そもそも発狂したことによるものであると認定された。

○九日 田中邦男が病で自宅にて死亡した。享年三十五歳であった。

亡くなる直前に詠んだ詩に

「コトカタノ 黄泉(ヨモ)ノヒラサカ越ユルトモ ナホ君ガ世ヲ 守ランモノオ」

又、かつて獄中において詠んだ歌に、

「数ナラズ 身ニシアレドモ 君ガタメ 尽クス誠ハ タユマザリケリ」

天津(アマツ)(カミ) アワレ見タマエ ツクシ来シ 誠ハイカデ (アダ)トナスベキ」

七代(ナナヨ)()ム (ノチ)ニモミヨヤ 重ナレル ウキ目ニアイシ コノ身ノウエヲ」

当時、田中の死を知ったものは皆その死を惜しんだ。

○十津川郷はこの処、しばしば周囲から疑いの目を向けられ、このことを密かに憤り嘆く者もいて、とうとう次のような文書を支配所である傳奏方に呈出した。

「私どもの郷中に浪士風の者が潜入してひそかに謀略を話し合っているとのたわごとを流しているものがおり、ついにはお疑いになったようで、最近紀伊殿が朝命を受け、取り調べをなされたところ潔白の事実が明らかとなり、紀藩からはそれを証明する報告書が提出され、郷中一同ひと先ず安堵したところである。

ことに紀州家においては、隣同志でもあり互いに協力し合って天朝に尽力しようと、かつまた、十津川郷において問題が起きた場合は解決の手助けもしてくれるという約束もできた。すなわちこの度は、疑いもすっかり晴れたばかりか、勤王の味方を得、この上ない幸せというべきであろう。

しかしながら、何度も繰り返しお疑いをかけられることに関しては、只黙ってばかりもいられず、あえて我々の心情を申し上げたいと思う。どうかお聞きいれ願いたい。

そもそも外国船が下田に渡来して以降、世間の議論は一致せず、これまでに無いほど内外で騒ぎが起こっており、恥ずかしながら、我が郷士は、さる癸亥の年、昔の通り朝廷を御守衛するという重職を仰せつかり、一同感激し全力を尽くして職務を果たそうと誓い、今後国家に何かあった場合、御命令以外にみだりに関わるようなことをして朝廷のご意向に反するものがあれば、直ちにこれを排除しようと約束しあい、その後は一度も朝廷のお手をわずらわすようなこともなく、忠実にお仕えしているにもかかわらず、たびたびお疑いを招き、さらには、この度び、内勅により郷中調査の件に至っては何とも恐れ多いことと驚きもはなはだしいことである。ただひたすら、偽りのうわさを流す者の謀であると申し上げる以外すべのないことである。とは申しながらこの事は、もとはと言えば我々郷人共が世間に疎く、それがために、自らが招いた禍であろうと推察される。

しかし、今の時代は世間一般に天朝と幕府の関係もどちらが主君でどちらが家臣であるか明らかとなっており、鎌倉以来将軍に命じられてきた習わしを改め、以前の国の体制に戻すことを望み、尊王攘夷の運動を起こし、郷中に誰一人勤王に反する者もなく、まさに朝廷に勃興していただくいい機会である。

既に長州藩の者たちは、天下を騒がせたけれども、朝廷においては彼らの心情を深く理解され、特別に寛大な処置を何度も仰せになり、まさに世間は朝廷を奉る我々の時代に入ったのだと感激いたしているところである。しかしながら、仮に臨機応変の処置として、十津川郷を鎮圧せよとの命令を下されたにしても、敵国との戦争の際に用いる間者(スパイ)等多人数を潜入させ、身を守るべき宝刀をも投げ捨てて、あるいは物乞いや下人の姿に変装してまであわてふためくのは誠に天朝を辱めることに他ならない見苦しいことである。

そのような者達は、朝命を盾に大砲を持って攻撃するつもりでもあるらしく、誠に乱暴狼藉なこと極まりない。

ただしこの度は、紀伊家において深く配慮された結果、じっくりと話し合うことができ、兵器を用いることもなく、ある程度の人数が十津川郷に立ち入り、調査をしていったけれども、今後もし今回のように我が郷に疑いがかけられるようなことになれば、わずかの行き違いでどのような事態に発展するかもしれない。

十津川郷は全て朝廷ご直轄の地であり、もともと朝命にひたすら従うとの心づもりであるので、多少なりとも御不審に思われることがあれば、直ちに朝廷に呼び出しの上御調べ下さり、二度と武家に取り調べを命ぜられることのないよう重ね重ねお願い申し上げる。

その上さらに、郷士共は数百年もの間民間に落ちぶれ生活してきたため、文武の道も遠ざかっているところに、突然御守衛の重職の命を受け、いかにしてその任務を果たすべきかと戸惑っているときに嫌疑を受け、益々慌てふためいている状態である。今更これまでの事のぐちを言う訳ではないけれども、十津川郷が昔から朝廷にお仕えしてきたことさえも忘れ去られようとしているのではないかと気掛かりで、我々はひと時も安心することが出来ずにいる。従って恐れ多くも、又、なすべきことではないとわかってはいるけれども、我々の心情を申し上げる次第である。」

○十六日 天皇の容体が猶予ならざることを初めて知り、皆心配で仕方なかった。

○二十四日 京都において藤井と久保・千葉・沖垣が総代となり、生の鯛一掛を紀州侯に進呈した。その返礼としてその日紀藩の津田監物が命を受け、藤井織之進、久保弥右衛門、千葉定之助、坂口牧太、前田雅楽、吉田俊男等に短銃を一挺づつ、又、郷中に酒四斗樽、及び料理代として二十五円を寄贈された。

○二十九日 天皇はついに回復されることなく崩御あそばされた。世の人々は悲しみに暮れた。

○慶応三年一月十六日 総代として丸田監物、松實冨之進が上京し、天皇崩御を哀悼する文書を支配所に上程した。

○孝明天皇の葬送の儀が執り行われた。十津川郷にはあらかじめ、衣帯、立烏帽子、素袍、熨斗目で十名を出仕させるように命を受けていたため、藤井織之助、鎌塚善左衛門、久保弥右衛門、前田浅之丞、和田良平、中砂右内、植田采女、千葉定之助、吉田俊男を総代としてお送りした。国は静まり返っていた。

○二十六日 俊男、雅楽、定之助、斎宮、弥右衛門、増田愃二郎、林勘十郎及び中沼清蔵等が和歌山に出かけた。昨年木屋町及び我が文武館においてなされた約束の履行を求めるためである。

○十三日 和歌山城において、野口駒五郎が代理として渡された書付は、以下の内容であった。

「京の御所の守衛に十津川郷士が勤めてくれているが、いろいろと失敗も多く難渋している様子であり、昨年の郷中鎮撫の際には天朝からの仰せの事でもあり、紀伊殿もいろいろお考えなされた上で、差し当たり援助としてこれを差し上げる」

として、千五百両の目録が贈呈された。

総代の諸氏はこの書付を受領し、一旦退席した上で話し合った結果、もともと我々がこのように働きかけをしているのは、新宮湊における過酷な新法を廃止するか又は、それに代わる保証を得ために紀藩が働きかけをしてくれるかいづれかを得るためであり、決して金に困って援助してほしいと言っているのではない。この金にしても、その元をたどれば全く救助には当たらない。従ってこの申し出を甘んじて受け入れることはできないと、まさにこれを返還する結論に達しようとした際、それを遮るものが居て、最終的にはこれを受領した。

○十七日 五條爲栄卿より日本書紀、古調古事記をそれぞれ一部づつ文武館に賜った。

○京都の東山清林庵に約二十坪余りの土地を購入し、十津川郷士が在京中に死亡した場合の神葬祭の墓山とした。

○三月八日夜 文武館の助教をしている加藤謙次郎が訳あって自殺した。

それを折立村の松雲寺に葬った。

氏は加賀出身で、学問に優れ文武館を開いて以降、熱心二生徒を教え、その影響を受けた者も数多くいる。

○この頃、もと薩摩藩士橋口次郎、山本杏蔭、梶原鉄之助等が文武館を訪れた。梶原氏は元の名を左近允嘉右衛門と称し、有名な人であった。

○二十八日 中川の宮より最近の郷人と紀州藩とのやり取りにつき質問があったので、直ちに執事に次のように申し上げた。

「紀州家からは十津川郷士が朝廷を御守衛するについては、いろいろと大変であろうから、何かにつけ相談してくれるようにと、懇談の際お話をいただいた事でもあり、昨今経済的に窮迫しているため、何とかしてこの急場をしのがねばならず、資本金として一万五千両を月五分の利息で十年間分割返済の約束で拝借したいと申し入れているが、今日に至っても何の返答もいただいていない。

先般千五百両を受領してはいるが、これはかねてより新宮湊の口銀に対する見返りとするとの話し合いも付いており、全く別のものである。

ここに至っては、先だって郷中の御守衛についての経費は相談していただきたいと約束していただいた件は、ただ単にその場限りの口実であったとしか思われない。

従って今後十津川郷の諸事に口をはさむことは一切お断りすべきであると郷内では評議しているところである。

○この頃、郷内では経済的に破綻をきたし食糧が底をつく者も出てくる状況に陥った。

そのため、京邸の経費を節約して、まず二百両を十津川郷に送り、当面の救済に充当することとした。

○十津川に客としてやって来ていた片岡源馬が京都に出かけていたある夕刻のこと、中井荘五郎等数名と散歩をし、四條橋のたもとに差し掛かった時、たまたま新撰組と呼ばれている連中と出会い、衣の袖が触れたと因縁をつけられ互いに睨み合った後ついに双方とも数人ずつが刀を抜き、橋の上で乱闘になった。このとき片岡がつまづき倒れたすきに乗じて、敵は氏の背及びすねを切りつけた。敵も傷つき、しばらくの後、たがいに逃げ去った。片岡も又逃れ、二、三十日ほど密かに療養した後、五月になって湯泉寺温泉に来浴して傷もすっかり治った。

○四月七日 奈良の半田横町に住む宇陀屋伊兵衛を京都ご守衛の者たちが、往復する際の御用達とすることにした。

○十三日 十津川郷で、製造した鮎の粕漬け二十五匹を薩摩島津侯に上京祝いとして進呈した。

○十八日 京邸の者が譜奏職柳原光愛に拝謁して、政治の動きについてお伺いをした。

これは、最近外国人数人が伏見から大津まで通行したため、世間では何かと騒いでいるためで、さらに我が郷を支配する傳奏飛鳥井卿が病となり、又野宮卿は辞職を願い出され、朝廷での様子をお聞きすることが出来なくなったためである。

それに対して、翌十九日に日野資宗卿が野宮卿の代理として傳奏職に就任されたとの公達を受けたので、日野卿の処へ御守衛を派遣した。

○昨年、新宮侯水野氏より六百両を拝借していたので、この度、丸田連と油上喜平治が本宮の橋詰新兵衛と一緒に水野氏の処に行き、謝意を表した上でそれを返還しようとしたが、城内の波練館でもてなしをされた上で、改めて同額を十津川郷に贈呈するとともに、前漢書・後漢書それぞれ一部ずつを文武館に贈られた。二人は厚く謝意を表した上でそれを受領して帰ってきた。

橋詰氏は当時我が国の事を想い、主として関係先の周旋に尽力された人である。

○二十四日 夜、長州の伊藤俊助、土佐の中岡慎太郎、田中顕助及び十津川の深瀬仲麿、吉田俊男等が京都祇園町の近江楼に集まり話し合いをした。

○二十七日 薩摩の内田仲之助、遠武橘次等に依頼して、前田正人、殿井官平、前倉武一を薩摩藩人に装い江戸に行かせて平元良蔵に就いて西洋の銃戦法を学ばせた。毎月十津川から六両の仕送りをした。

○五月三日 土佐の容堂侯が前日上京されたので鯛を贈呈して、無事着任された事をお祝いした。その際、土佐藩から小笠原唯八、深尾三九郎の二名が応対し、謝詞を述べられた。

○四日 中川の宮のご配慮により御守衛費用として百両を賜った。

○この頃より土佐を脱藩した大橋慎三ほか数名がひそかに我が京邸に滞留した。維新の後大橋氏が病により死亡した際には、人々はことのほかその死を惜しんだ。

○二十五日 幕府が京都三條橋のあたりに掲げていた、長州・防府を討伐する理由を記した掲示板を撤去した。これを見て人々の心は安堵した。

先だって、土佐の宮川助五郎、岡田応助、豊永貫一郎等が夜が更けてからこの掲示板を破砕してしまおうと試みたが失敗に終わり、逆に宮川がその場で役人に捕らえられてしまった。一緒にいた山崎紀宗治と山脇太郎等は逃げて薩摩藩邸に潜伏したのち、山崎と山脇の二人は十津川に入り、文武館に滞在した。やがて宮川氏は幸いにも土佐藩に帰ることが許されたという。

○六月五日 十津川郷内の神社においては今後僧侶が経を上げることを禁止することとした。

○十一日 郷で取れた椎茸二斗を芸洲侯の上京祝いに進呈した。道家牧太郎が謹んでこれを受領された。

○十九日 土佐の森田司馬より、先日土佐侯に祝儀の贈り物をしたお礼として三百両を差し上げることになったとの書状を送られた。

○二十日 紀州藩の三浦休太郎より「貞観政要」を三部寄贈された。又、芸洲藩の萱野肇からは、先日の贈り物に対するお返しとして三原酒三樽を寄贈するとの目録を受領した。

○七月十一日 御所からは郷中が経済的に困窮していると聞き、気の毒に思い、今回限りとして千両を支給するとの書付を賜り、一同ありがたくこれを拝受した。

○八月 芸洲侯の内務担当者から、銃器を寄贈された。

その添え書きには、

 

ミニーヘル銃   百挺

一、ゲベール銃  百五十挺

右。十津川郷が国のため尽力され、困窮されている事を聞き、事のほか感激している。ついては、今後一緒に天下のために尽力いたしたく、わずかではあるが、銃器を進呈いたす。

今後の国事遂行の足しになれば何よりである。

 

本件は、以前からありがたくも拝借していたものを、ここに至ってあらためて寄贈されることとなったものである。

これは、同藩の船越洋之助、小林柔吉氏等が十津川の諸氏と親しく交際しており、彼らの配慮によってなされたものである。

○この頃 中沼了三翁が、幕府から怪しまれ目をつけられているとの情報を得たため、京邸のものが夜陰に紛れて京都を脱出し十津川郷に潜伏させた。やがて、一月程経ってその気配もなくなったので京都に帰って行った。

○九月十二日 銃隊を訓練させるため、若者五十名を募集しようと、吉田俊男、中某が帰郷した。その際一人に就き二両として、計百両が中岡慎太郎から提供された。

この金は、実は中岡が西郷から借用したものだと云われている。

なぜならば、当時脱藩した浪士を五十人程度救済する目的で、中岡や坂本竜馬等が密かに計画し、京都白川にある土佐藩邸を十津川郷士訓練のためと称して借用させ、その中に密かに脱藩浪士を紛れ込ませ一緒に訓練させようと画策したといわれており、十二月になって計画が実行され、薩摩藩に教授を出してくれるよう依頼があり、鈴木源五郎等がやってきて、英国式の訓練を始めた。人々は毎日通って訓練を受けた。

しかしながら、反対する者もいて、不快の念を持って言った。

それそそれでよろしいが、主として銃の訓練をして万一何事かが発生した時に駆けつけて敵と戦うというのは、本来諸藩のすべきことであり、我が御親兵は彼らとは異なり、常に朝廷のそばにいて連絡を密にして御守衛に徹するのが本来なすべき職務であるというのである。

その意見同調する者も少なからず居て、しばらくはこの是非につき緊張する局面が続いた。

○十四日 将軍徳川慶喜が大政の返上を申し述べられ、翌十五日にそのことが伝えられた。

そのため、公卿や各藩が御所に集まりその件について議論された。

各藩や我が十津川郷の者も各公卿方を御守衛のため、禁門の外において一日中、あるいは徹夜で命令が下されるのを待つことも数度あった。

上も下も大いに喜んだ出来事であった。

○二十日 京都河原町通丸太町上ルの若狭屋清助に京邸の諸事御用達を申し渡してあったため、この度取りあえず二十両を支給した。

清助や五條通麩屋町の阪本屋善助等には相前後して、我が京邸のために金や食料を用立てることに尽力してくれ大いに助けられた。

○京邸において緊急の提案があり、このように朝廷ご守衛の重任に就いていながら郷中では多くの事は旧態然として只、村役人の指揮に従っていればそれでよしと考えている。

又、役員も選挙によらず輪番制のままである。このままでは、御守衛のご用も迅速に運ぶことが出来ないので、この際これまでの方式を改め、人材を登用し、職務を十分に果たせるようにすることが必要だとの提案であり、京邸で議論した末、その意見で合意した。そのことを十津川に持ち帰り協議するため、前田雅楽、泉谷勇麿、中西謙蔵等が代表者として帰郷した。

○十一月三日 会議場を折立村の松雲寺に決め、各村から代表者一名ずつを集めた。

まず、前田等が京都の議論の内容を説明し、今日では、人材を選挙によって決める必要があることはなによりも急を要する問題である。従って、ここの処多少なりとも事務に習熟している者を推薦し、評定衆と名付け、彼らに内外の事務を担当させようと思う。その定員については、毎年十一月にこの場所において会議を開き、その都度決定することとし、規則は順次整備していくこととしたい。最近の世の中の情勢をよく考え、この場で十分議論していただきたいと述べた。

その結果討論の末、提案通りに決定した。

そこでまず、以下の三十名あまりが推挙された。

丸田監物、上平主税、吉田俊男、前田雅楽、深瀬仲麿、沼田民部、前倉右衛門、藤井織之助、千葉左中、松實冨之進、千葉定之助、原田左馬之助、西田久左衛門,前又兵衛、玉置蔵人、植田采女、坂口牧太郎、丸田兵後、玉置安次郎、玉置多仲、瀧本右京、玉置房之進、中島織之進、泉谷勇麿、平岡源蔵、馬場佐平治、野長瀬順六郎、岸本庄兵衛、玉置善左衛門、千葉清作、野尻助左衛門等であった。

但しこれでもまだ人数は十分とはいえない。さらに選ばれた者の仲にも同意しない者もいて後日紛糾の種となった。

○八日 上平主税、前木鏡之進、入鹿五郎次が連署して支配所及び高官各家に建白した。その内容は、

「本月十六日を持って、先帝のお局方が頭髪を剃る儀式が執り行われることに決定したとのことであるが、この儀式は中世からの悪い習慣であり、このたび王政に戻ったとは言ってもこのような些細な悪習にこだわっているようでは、世間の人々の信頼を得ることにも大いに影響してくる。従って頭髪を剃る儀式は延期していただいた上で、広く人々の意見を聞いた上で決定していただくようお願い申し上げる。等々」であった。

そして十一日、薩摩藩の内田仲之助から上平主税に連絡があり、建白していただいた件については、左府公に申し上げたところ、もっともなことであるとお思いになり、その後審議に掛けられた上、十六日の儀式は延期されることとなった。この事はひとえにその方らのご尽力の賜物と感謝している。公式の発表ではなく内示ではあるがひとまずはご安心くだされたく、とりあえずご報告申し上げる。との事であった。

結局その後も、お局の頭髪を剃る儀式が執り行われることはなかった。

○二十七日 十津川の山中でしとめた大熊一頭を京都に運び、薩摩侯に進呈した。二十九日には薩摩侯から返礼として、郷士に五十両、上平主税には琉球の紬(つむぎ)二反を賜った。

○十二月五日 十津川郷の聚議館の上棟を行った。

○この月 天川郷の総代沖金村と堀井義兵衛が十津川郷の紹介により、自分等も南朝の旧臣であったのだから、相応の職務に就かせてほしいと、朝廷に請願したが、結局採用されるに至らなかった。

○七日の夜 中井荘五郎が十津川郷の四・五人及び紀州藩士、土佐藩士等と計画し、京都七條の西辺で佐幕派が宴会を開いているところを襲撃した。

相手は直ちにろうそくの明かりを消し、暗闇の中を中井は勇壮に斬り込み、敵数人を殺傷した。自分も又数か所に創を負い、現場に倒れたがそのまま死骸を回収することはできず、同行した諸氏のうち数名は重軽傷を負った。これは、土佐藩の阪本竜馬・中岡慎太郎が京都河原町四條上ル処にいたところ、賊が訪れ、十津川人であると偽称し、面会を求めた。

そこの使用人が取り次ぎをしようと二人が居る二階の居室に行こうと階段を昇って行ったところ、賊は使用人の後について二階に乱入し、いきなり刀を抜き二人の不意を突いて襲いかかった。二人は刀を身につけておらず、素手のままでは戦うことも出来ず、阪本はただ一刀のもとに切り殺され、中岡は短剣で刀を受けて、潜って相手の胸部を突こうとしたがかなわず、ついに重傷を負って倒れ、かすかに呼吸をしているのみである。賊はそれを確認して逃走した。中岡もその夜のうちに死亡した。

同志の者達は二人の不慮の死を悲憤し、ほうぼう捜索した結果、佐幕派の仕業であることを突き止め、その怨みを晴らすため、この夜の襲撃に至ったという。

後々、同志の者たちの手で、阪本、中岡、中井の三人の墓が京都東山に建てられ一緒に祭られた。

○八日 仁和寺の宮(後の小松宮嘉彰親王)が僧籍を離れ議定職に戻られた。

従って、十六日にそのお祝いの意を表して、郷から鯛を一掛献上した。

仁和寺の宮は日頃中沼了三先生に学問を受け、郷士をよく理解して頂いていたためである。

○この月 鷲尾侍従が内命を受け、かねてより土佐藩邸で訓練していた十津川郷兵五十名及び浪士数十名を率いて日が暮れてから密かに京都を出発。紀伊の高野山に向けて出兵した。これは幕府の思惑がよくわからず、このままでは形勢も不利であり万一の事態に備えるためであった。

その際とくに我が十津川隊には次の朝命が下された。

「最近の情勢は切迫して状態にあるため、これを鎮静化することは勿論のこと、万一朝廷に対し反逆する賊徒が事を引き起こしたときは、十津川郷をあげて征伐し忠勤に努めること。」

○京都に住む、山口栄助、平田源助、吉田久三郎、熊谷和助等が、山岡利兵衛の紹介で、十津川隊にかかわってしかるべく奉公を致したいと願い出たため、それぞれに十津川郷の印が入った提灯、はっぴ等を与え京邸に出入りすることを許可した。

○九日 会津と桑名の各藩主が急きょ兵を率いて二条城に入った。

そのため京邸より兵を出し御所内に入って紫宸殿前の庭に集まり御守衛をした。

○十日 我が隊は土佐藩と交替し、備前兵と一緒に蛤門の御守衛を命ぜられた。

しかしながら、我が隊の人数は中川宮殿を初め職業も御守衛しているため、余りにも少人数であったので、このような蛤門という重要な場を御守衛するのは困難であると吉田俊男と中西謙蔵が急ぎ朝廷に行き、どちらか一方のみにして頂きたいと申し出たところ、参与の後藤象二郎が面接して言うには、どちらにしても人数は不足しており、ほかに方法もないので、そのまま蛤門をしっかり御守衛すべきであるとの指示があり、二人は了承してその場は引き下がった。

このときの各藩の皇宮御守衛の人数は少人数であり、誠に危険極まりない事であった。

○十一日夜 長州藩の兵士が入京し、大いに勢力を得た。

○十二日 御所から慰労として十津川隊に酒を四斗樽で二樽とするめ数束を賜った。

○十三日 前の将軍徳川氏が会津や桑名等の親藩を従えて二条城を出発、大阪城に移動された。これは世間の過激派を鎮圧するためであると云われた。

○十四日早朝 参与職から次のように命令が下された。

「     十津川郷士へ

 蛤御門の御守衛は免除するので明朝全員引き払うように。

 その後御守衛は、長州藩に命令するので引き渡しをすること。」

さらにその次の日、又命令が下された。

「     十津川郷士九十人に対し

 唐御門に十二名、御台所御門に十二名、日之御門に六名、それぞれ昼と夜交替で勤番し、緊急時の要員として、三十名ずつが駆け付けられるよう待機させるように。」

さらにその夜、次の命令が下された。

「    十津川郷士へ

 今後は参与が御支配される。

 ただし尋ねること等あれば、全ての事は参事の役所に参上すること。」

さらに、高野山の鷲尾隊は、次の召集の書面を十津川郷全体に投げ入れた。

「今まさに事態は切迫しており、その鎮静化は勿論のこと、朝廷に対して謀反を起こそうとする賊徒があれば、有志の者たちを率いて直ちにこれを征伐するようにとの勅命を受け出張して参った。従って郷中の者たちは直ちに高野山に駆けつけるように。」

以上は、丁卯十二月十二日 鷲尾侍従より十津川郷士へと記されていた。

そして召集の督促のため、田辺賢助、伊藤源助(新撰組を脱退し陸援隊に加わったとされる)及び十津川郷の光野数馬、鎌塚実之助等が入郷し十六日に文武館に到着した。途中の道路ではこのような重大な時にいまだに京の十津川邸から何の連絡もないというのは実に妙な話であると主張する者もいた。

又、たまたま京都から帰ってきた久保常之進は、京邸では高野山の事は何も聞かされていないようであるという。

従って軽はずみに、以前の天の辻の変の轍を踏むことがあってはならないと。

既に結束して高野山に駆けつけようとする者たちも、その真偽を確かめるすべもなく逡巡した。召集のため入郷した者達は、懸命に説明をしたがなかなか信用されるに至らない。

そこで、十七日夕刻、久保弥右衛門、西村信之助等が決心し、集会所に行って村の重役の代理として丸田兵部及び松井源蔵等と協議の上、いずれにしても一刻の猶予もならない事態であることは間違いない。直ちに高野山に参加するとともにそれが真実かどうか様子をうかがい、もし疑わしいときは素早く手を引くこととし、一方では、直ちに京都に人を送り現状を報告するとともに、朝廷の意向を確認すべきであると決定し、丸田と松井は沿道に参集した者たちと共に高野山に向かって出発した。

そうこうする内に、高野山の一件は内命によるものであることが判明し、郷人はその召集に呼応して続々と集まり、本営のある金光院に到着した人数は、相前後して六百五十人余りとなった。

後日、久保常之進は人々に疑いを抱かせたとして罰を受けたものの、当時は内々に事態が進められていた事であり、久保も悪意があっての行為でなく事実を言ったに過ぎないとも言われた。

かくして、高野山では香川敬三、大橋慎三、丸田監物、前田雅楽を参謀補助とし、その他も各々職務を命ぜられ戦の準備はほぼ整った。

このことは、紀州藩をはじめ近隣の各藩にも次のごとく報告が行われた。

「去る九日、王政復古の大号令が下された。ついては少数の権力者が奢る悪習や些細なことにこだわり皇国及び、だれが臣で誰が子であるのかの本筋を忘れて、目先の利益のみを主張する者も少なからず居り、国家に大復古が実現するに当って彼らはどのような軽率な行動を起こすかもしれない。従って今鷲尾侍従殿が朝命を賜り、高野山に出張し、厳重に取り締まりをすることとなった。同時に又、十津川郷にも同様の朝命が下されたので、それに対して非常に多くの者が参集し、朝廷に対して誠意あるところを表明してくれた。

言うまでもないが、鷲尾侍従の配下には一人たりとも、むやみに武器を使用したり、人民を困らせるような事は致さないので、決して心配する事の無いように。

この件に就いて仮にもお疑いの事があれば当然朝廷に問い合わせて頂いて構わない。

以上報告申し上げる。」

この報告に対して、高野山の僧達は、仁和寺宮に事の真偽を問い合わせたところ、間違いなく内命が出されていることが判明し、高野山の全僧が従うこととなった。さらに紀州藩では、何かこれまでの慣習であるからと称して京都に確認をしたとのことである。

○二十六日 この長年防府、長州の方面に避難されていた七卿の内、三條、東久世、四條、壬生、三條西の五卿が伏見までお戻りになり、翌朝京にお入りになるとの情報が入った。

そのため、二十七日夜明けの頃、上平主税、増田二郎、前岡角五郎、中島磯之進、山本謙一郎、前木鏡之進、野尻助左衛門、藤沢伊織、中村連助、玉置勝吉等が京邸を出発、伏見まで行き五卿に拝謁しお祝いの言葉を申し上げ、それに対し四條卿から謝意を表された。

その後しばらくして出発。薩摩、長州の兵が前後を守衛し、我が郷士たちはさらにその後方の守衛に就いた。

進路は、稲荷街道を通り、五條橋を渡り、寺町を北へ進み三條で西へ曲がり、さらに烏丸を北へ上って蛤門を通過、そのまますぐに公卿門から御所内に参内された。

その帰り道、人々が道路の両側にあふれ返り、朝廷に忠誠を尽くす我々を、これで国家は幸福になると歓呼して喜んでくれた。

○二十七日 建春門前において、薩摩、長州、土佐、芸洲の四藩が西洋式の銃の訓練を披露した。この日我が隊は、九重を御守衛するための兵を出して、命令を待つようにと前夜に正親町の公薫卿から申し渡されていた。

○二十九日 紀伊中納言の使者で近習頭取職の渋谷九右衛門が慰問のためと称して高野山の陣営にやって来た。その数日前に鷲尾侍従は藤村紫郎を久能の丹波の守の処に使者として送り、その考えを問いただした。丹波の守は鷲尾侍従に従うのでなんなりと要件を命じて頂きたいとの回答をした。

この時点でもまだ大阪城に大挙して集まっていた幕府軍は、まだ何の動きも見せずにいたため、今後の動静に世間は注目し安堵する事が出来ない状況であった。

《以上 十津川記事 巻の上 おわり》

                                                           
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